昭和に建てた以前の家には、祖父、祖母、父、母、私の5人が住んでいたので、母のためのスペースは無いに等しかった。家事の合間に一服したり、やりかけの編み物を置いて家事をして再開できる…そんな空間に母は憧れていたように思う。
私が就職すると、母はよく私の部屋に入ってきては、夢見るような眼差しでこう言った。
「あなたがお嫁に行ったら、この部屋にソファを置いて、私の部屋にするんだから」
私の部屋は、陽当たりの良い、庭のよく見える場所にあった。
さて、私は未だ嫁がず、母はしびれをきらして他界してしまったので、母の夢は叶うことがなかった。
…と思いきや、母はひっそりと夢を叶えていたのだ。
母が亡くなった後、家のリフォーム案が浮上した。前の家は築30年経たないというのに床はへこみ、耐震診断というのをしてもらったら補強が必要と言われた。紙と木で作られ、藺草を敷きつめた昭和の家は傷みが激しく、バリアフリーとも程遠い。父は70歳を超えていたが、新築に踏み切った。
父は、新聞で情報を集め、本をどっさりと買い込み、熱心に研究を始めた。あちこちにコネクションを築き、私もセミナーや説明会に派遣された。父が参加したセミナーで、某建築家のグループに出会い、メンバーだった甚五郎さんに設計図を描いてもらった。
こうして今の家ができた。
父の念入りなリサーチの甲斐あって、前の家よりずっと快適で頑丈で住み心地の良い家ができた。
父の希望で、1階のリビングに仏壇を置く棚を作りつけてもらった。仏壇の真正面にある窓は、巨大な絵のように、季節にうつろう梅の木と紫陽花を映し出してくれる。リビングには父の念願の応接セットと、当時登場した大画面液晶テレビ。
お客様をもてなすことも想定されるスペースのど真ん中に、古典的な仏壇を設置する家は珍しいかもしれない。が、木目調のリビングに仏壇は違和感なくフィットした。花や写真を飾ることもできた。
父はこのリビングのソファに腰掛け、テレビを見ながら新聞や本を読み、ハーモニカを吹き、イラスト画を描いて、人生の残り時間を過ごすこととなった。
新築後1年くらいした頃だろうか、仏壇の前のソファに腰掛けて新聞を読む父を見て、私は「あっ!」と思った。
そのソファの置いてある位置は、かつて母が、「ここにソファを置いて…」と目論んでいた、まさにその位置だった。仏壇の横では母の遺影が、庭を眺めるように微笑んでいる。
母は、我々の気づかぬ間にちゃっかり夢を叶えていたのだ。
父から聞いた話では、当初は違う設計屋さんが担当となったらしいが、父の「カン」のようなものが働いて、甚五郎さんに変えてもらったそうだ。人の好き嫌いが(わりと)激しかった父と母。東照宮の眠り猫(熊猫?)がふと目を覚ませて仕事をしているような、人当たりのいい空気を持った甚五郎さんには、父だけでなく、母も希望を託しやすかったのだろう。
母が亡くなって19年になる。
まさか、私が2階にいる間や出かけている間、二人して仏壇から抜け出して、このソファに座って庭なんか眺めているんだろうか?
そう思いながら、ソファの前には父の日課だった新聞を毎日、そしてときにお菓子を置いてみたりする。
紫陽花の最も美しい季節、今日は母の命日だ。