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「ラスト・ソング」のその後

ファミリー・ポートレイト

父と過ごした日々についても、葬儀についても、概ね「よし」としている私だけれど、後悔していることが一つある。

ファミリー・ポートレイトを撮っておけばよかったということだ。

 

父の姉の葬儀に出たとき、彼女の遺影はとても素敵だった。

薄紫色の光に包まれて、今にも語りかけてきそうな、柔和な笑みを浮かべた伯母だった。

かつては童謡歌手として活躍した伯母の最期を飾る、センスに溢れていた。

 

父の遺影も立派な点では引けを取らなかったが、今の私より若い時の写真だった。晩年の写真はまるで「子泣き爺」で人前に出せず、「よそ行き」にできるような写真は三十余年前に撮られたものしかなかったのだ。でもあまりに若すぎて毎日手を合わせるには違和感があったので、仏壇には「子泣き爺」の写真を「普段使い」の遺影として置いてある。

 

終活という言葉が出回る前から、父は、そのテのセミナーに多数参加し、「良い死に方」を模索していた。セミナーでもらったらしいエンディングノートも数冊出てきた(ただし白紙のままである)。葬儀社のカタログにチェックマークがついているものも見つかった。これには笑ってしまったが、出てきたのが葬儀が終わってからでよかった。

 

私は、祖父、祖母、母と3回も身内の葬儀を経験しているので、葬儀について迷うところはなかった。祖父の時から懇意にしている葬儀屋に電話を入れれば、あとは葬儀屋が過去のデータに照らし合わせて、父だけが質素または豪華にならないよう、グレードを決めてくれたからだ。この葬儀屋にポイントカードがあれば、大分ポイントが貯まっているはずだ。私の棺桶くらいは無料にならないだろうか??

 

冗談はさておき…

手回しが異常に良い父であったが、遺影の撮影だけはおざなりになっていた。

いや、確か一度、写真屋に行ったことはあった。だけど、思い違いがあったか何かで、撮らずに帰ってきたのだ。あの時、私も積極的に探せばよかった。なにも遺影撮影専門店を探さなくとも、デパートの写真館に行けばよかったのだ。

 

遺影の撮影は触れたくない話題だ。

祖母も70歳を超えた頃から毎年、身内の新年会の最後に「遺影にしておくれ」と言いながらカメラの前に座り、その度に「縁起でもない」と親戚一同に眉をひそめられていた。

逆に、こちらから「撮ろう」と言おうものなら、「早く逝ってほしいのか」と言うような僻みっぽい老人もいるかもしれない。

 

父も私も写真を撮られるのがあまり好きではなかった。写真写りも、揃って良くない。だからこそ撮っておくべきだった。

死が近づくにつれ「縁起でもない」気持ちは強くなるし、容貌も落ちる。(比較的)若いうちに考えておくべきことだった。

 

父が亡くなった後、私の証明書の写真があまりにひどいので、今後10年使用できるよう奮発して、デパートの写真館に行き、撮ってもらった。

さすが商店街の写真屋と違う。照明も、表情の引き出し方も、シャッターの回数も、卓越していた。被写体は同じなのに、こんなにも魅力的に写るのかと感動さえした。不要に焼き増ししてしまったくらいだ。

 

その写真館の受付に、家族のポートレートが飾ってあるのを見て、我が家も撮っておけばよかったと大いに後悔した。ここで撮れば、遺影だけでなく、思い出になる写真が撮れたに違いない。

 

ということで、父と私、写真嫌いの二人が一緒に写った写真、最後に撮ったのは昭和…だったかもしれない。