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「ラスト・ソング」のその後

二都物語

皆さんは、ご先祖様の戸籍の「出生地」を見たことがあるだろうか。

私の父の出生地は「東京都京橋区」、父の姉兄は「東京都日本橋区」、ともに現在の東京都中央区である。

 

日本橋区京橋区が統合され中央区となったのは昭和22年。

日本橋区は“ざっくり言って”現在、日本橋〇〇町と呼ばれる辺りで、

京橋区はその他の、京橋、銀座、築地などだった。

 

私が生まれたときはすでに中央区となっていたので、日本橋区京橋区がどのような関係だったかは知らない。

が、私が仕事をしていた平成の時代にあっても、なんとなく昔の関係を感じることはできた。

 

それまで保健所は各区に数ヶ所ずつあったが、平成に入って一区一所を原則とするようになった。

保健所の所長と予防課長は医師免許を持っていなければならなかった。いっぽうで、人材の確保が困難となってきたのだ🥼

 

面積も小さく、住民も(当時は)少なかった中央区

保健所は一所の方が効率がいいのに、なかなかそうならなかった。

統合以前から存在していた「日本橋医師会」と「京橋医師会」の競い合いがその根源…らしかった(決して「いがみ合って」いたわけではなく、「張り合っていた」程度だと思う)。

結局、日本橋保健所は「日本橋保健センター」となって今に至る。

 

江戸時代から商業の中心地、地方への街道の拠点として発達した日本橋

戦後、オシャレの中心地として発展してきた銀座・京橋。

私たち消費者にとっては全く別々の意味合いを持った街だが、お互いに意識しているらしい🌇

 

父が生まれる前、関東大震災以前まで、祖父母の家は日本橋区田原町*にあった。

若い頃を日本橋で過ごした祖母は日本橋贔屓で、70代頃までは「髪結さん」つまり美容院に通うためわざわざ日本橋を訪れていた。

室町あたりには当時もまだ、懐かしい人たちが住んでいたらしい。

《祖母の婚礼写真。ほぼ初対面でこんなお嫁さんが現れて、祖父はきっと🥰だっただろう。》

 

《家があった辺りに、今は飲食店が建ち並ぶ。》

《かつて立食だったラーメンも、現在はシルバートレイにのって。》

 

髪結さんもその一つで、「チロル」という看板を掲げていた。

おそらく祖母は、同窓会に行くような、懐かしいワクワクした気持ちで電髪つまりパーマをかけてもらっていたのだろう。

髪の毛を整えてもらった後、祖母はデパ地下スイーツを求め、ワクワクを私にお裾分けしてくれた🧁

 

私も小学生の頃、祖母と一緒にその店を訪れ、髪の毛をカットしてもらった記憶がある。さらに私の記憶が正しければ(正しくない可能性が高い)、高校を卒業してパーマ解禁になった従姉も来ていた(年齢の計算が合わないんだもん…笑)👩‍🦱

 

私も日本橋に通勤し、ランチを食べ、寄り道をするようになって、その街の良さを実感するようになった。

今では私も祖母と同じ、日本橋ファン。

電髪はかけないが、年に数回、日本橋にしかないものを求めて足を運ぶ。

前にも書いたことがあるが、そこには大手デパートの壮麗な本店があるだけでない。伝統や人情にあふれた素敵な店が今でも建ち並んでいる🍱

《百貨店というより伝統建築と呼ぶほうがふさわしい、贅沢空間。》

 

同じ銀座線のたった2、3駅離れているだけの、銀座vs日本橋三越前)。

かたや外国人観光客で溢れ、繁栄する一方で落ち着かない街になってしまった。

かたや再開発と代替わりで昔の雰囲気は薄れる一方で、個性ある温かい街となっている。

 

日本橋を訪れるなら晩秋がオススメだ。

人形町でお昼を食べて浜町まで、黄金色の銀杏を鑑賞しながらぶらぶら。夕暮れどきの老舗デパートを内外両方から眺め、室町界隈の料亭または洋食屋で夕食…というのが私の推奨コース🌃

 

べったら市などのイベントに参加した後、老舗デパートの特別食堂…というライトコースも、オススメです🍂

 

 

*小田原町は(私の記憶・推測が正しければ)魚河岸の築地移転とともに町名ごと築地に移転し、現在は築地に「小田原町交番」の名前だけ残っている(🙇‍♀️調べておきます)。

遺伝か文化か🧐

父方の遺伝子を共有する人たちは、皆さん歌舞音曲好き♬

母方は?というと、古いモノ好きに集約される…ようだ⚱️

 

母のすぐ上の兄、すなわち私の伯父は、中央線の沿線に小さな店を持っていた。

母はこの伯父ととても仲が良く、母はまだ赤ん坊の私を連れて伯父の店をよく訪れた。

 

ありがたいことに家の近くを通るバスが、伯父の店の近くまで走っていたのだ。まるで母と伯父のために作られたようなこのバス路線は、バス路線が次々と廃止される中、まだ多くの高齢者(私を含む)を乗せて運んでいる🚌

 

まだ地震も少なかった頃、伯父の店では😺の額ほどのスペースにありとあらゆる品物がひしめきあっていた。

近所の商店街と、デパートのおもちゃ売り場しか知らなかった私にとって、そこはおもちゃ箱をリアルに拡大コピーしたような感じだった💎

 

昭和時代の写真はまだ人物を撮るためのもので、伯父の店を撮った写真が一枚もないのが残念💧

 

そこにはおチビの私にとって、名前も分からないものばかり。

名前をつけられないものは記憶に残らないものだ。唯一覚えているのは、私の目の高さに陳列されていた、中古の麻雀牌セットと宝石のついた指輪。

伯父の店は、いわゆる「質流品」の店だったらしい。

 

ずうっと後になって聞いた話によると、伯父は徴兵された。

戦地に行く前に終戦になったが、高卒であり次男であったことから職業選びの選択肢も限られていた。仲の良かった従兄弟が古物商のライセンスをとり質屋を始めたため、伯父も倣ったと言う。

 

昔の庶民はお金に困ると質屋に頼るのが普通だった…らしい。

モノ自体が少なかったので、質屋や質流品を求める人も多く、伯父の店も羽振りが良かったらしい。伯父はマイカーも持っていたし、いつもこざっぱりとしていてダンディーだった。

《伯父、母、私。》

 

が、日本の景気が上向くとともに、身の回り品を売ってお金にする人も減っていった。伯父もついには店をたたんだ😥

(現在、質屋は断捨離した日本人と近隣の国からブランド品を求める人で再び繁栄しているらしい。)

 

いっぽう伯父の従兄弟の質屋は場所の恩恵を受け、某有名刑事ドラマのロケが(おそらくたった1回)行われたことから “名所”となり、店はご子息に引き継がれている💵

 

伯父の店も伯父の従兄弟の店も時代の要求のままに始められたが、古いモノに全く関心がなければ始められない…と思う。

実際、伯父は切手などをたくさん集めていて、私にも譲ってくれたことがあった。

 

“古いモノ好き遺伝子”というものがあるのか、母方の従姉妹は骨董品好きで、先日骨董市にご一緒した🪆

都会の真ん中に、外国のアンティーク、日本の骨董など、様々な物品を扱う店が数十軒。

近年このテの骨董市・蚤の市が流行っているらしい。

 

外国のアンティークはおそらく、店主が足を運んで仕入れてきたものだろう。

ジュエリーやらレースやらボタンやらの前に群がるのは、日本人女子💍

いっぽう日本の骨董はと言うと、我が家にもあったようなものばかり。

“本当の骨董”のほか、結婚式の引き出物でもらったようなお皿や、古いハガキやら誰が写っているのかわからない写真まで。

日本のモノの店には外国人が群がる。

 

「そんなものが嬉しいのね」と思うような品物をゲットして満面笑顔の外人さん😍

 

誰が買うのか、某シュウマイ屋の陶製醤油差しをいっぱい並べているお店😜

 

私も故人の残したものを大切にとっておけば、公務員1ヶ月の給料くらいは稼げたかもしれない…などと思ってしまう。

しかし私がそれらに値札をつけて道端に並べても、誰も見向きもしないだろう。

 

新しモノ好きには、「新奇探索(性)遺伝子」の存在が知られている。

ヒトは同時に「古いモノ好き遺伝子」を持っているのだろうか?

 

青空の下、古いモノに群がる様々な目の色・肌の色をした人たちを見ていると、好みの違いこそあれ、古いモノ好きは人類が普遍的に持っている文化なのではないだろうか…と思ったりする。

《祖母の故郷である深川で催される蚤の市はアットホームな雰囲気。》

 

あんちゃん

父は、お兄さんのことを「あんちゃん」と呼んでいた。

 

父のきょうだいは上から順に、女・男・女・男・女。

時代背景を鑑みて、お兄さんが生まれたとき、祖父も祖母も狂喜乱舞して喜んだ。その喜びようは、お兄さんの名前に反映されている😂

 

祖父は、家だけでなく商売の跡取りとなるお兄さんを、他のきょうだいと「分け隔てて」大切に育てた🐟

 

現代ではどこの家でも、ロイヤルファミリーでも、きょうだい同等の教育を受け、兄が継げなければ弟が継いでもいいし、二人で継ぐという選択肢もある。

しかし昭和初期までは生まれたときに運命が決まっていたようなもの。そしてその運命は、容易に変えることはできない。

 

他のきょうだいは家を継ぐスペアにはなるが、商売の後継者の補欠にはなり得なかった。

 

「長男別格扱い」は我が家だけの話ではない。

商家ではなかった母の実家でも、長男となるお兄さんは(超)特別扱いをされていたという。

教育だけでなく、食べ物も着るものも。日常生活でも、下のきょうだいたちは上のきょうだいと遊んだりしなかったらしい。

 

父のきょうだいの場合は、母の実家よりは平等に近かったようだ。

父とお兄さんは男同士、仲が良く、父の子供時代の話にはいつも「あんちゃん」が登場する。

銀座までかけっこしたことも、あったらしい。まさに “前世犬”兄弟(笑)

《父とあんちゃん》

 

あんちゃんが家業を継ぐために商業を学んでいた頃、戦争が始まった。

戦地に行くことはなかったが、頭脳明晰なため、暗号の解読などをやっていたらしい。

そして二十歳になるかならないかのときに亡くなった。結核だったと言う🫁

 

生きているあんちゃんと最後に話をしたのは父だったそうだ。

そのときの話をする父は辛そうで、私もあまり尋ねることはできなかった。

人生の一番いいとされる時期、もっともっと生きたかっただろうことは、私にも想像できる💧

 

祖父母の悲しみも尋常ではなかったらしい。

祖父は、我が子全員を失ったかのごとく嘆き、

祖母は「まだ3人いるんですけど」と言ったという。

 

(失礼ながら)祖父の商売自体は幼少時からの「修行」を必ずしも必要とするものではない。

しかし昔ながらの仕事というものは、農業でも林業でも漁業でも、あるいは寿司屋や大工などでもそうであるように、ある種の「決意」を必要とするもの。幼少時からの訓練というものはスキルだけでなく、「決意」を根付かせるのに必要な過程なのではないか…と思う。

 

20代だった父に、あるいは娘の一人に婿を取らせて、家業を継がせることも可能だったはずだが、その人に決意をさせるだけの決意が当時の祖父にはなかった。

早い話、長女・長男を相次いで亡くして魂を抜かれた状態だったのではないかと、私は思う。

 

ともあれ一年ほどの短い期間に曽祖母、長女、長男を葬うことになり、さらに空襲で家まで焼かれてしまった祖父母は心機一転、住居地を移す決心をした。

茫然自失となった祖父を奮い立たせるためだったのではないかと、私は思う。

 

移り住んだのが吉と出たのか、生まれつきの生命力というものか、はたまた早逝した上二人のきょうだいの「生命への執念」みたいなものを受けたのか、下の3人は上二人の4倍以上の寿命をまっとうし、現在も我が家のギネスを更新中🎊

 

「元気で長生きしてください」と安易に言うことは無意味で無責任であることは十分に承知している。しかし若くしてこの世を去らなければならなかったお兄さん、お姉さんの無念さを思うと、健康長寿を願わずにはいられない🙏

 

《お兄さん、お姉さんが長生きし、家族を持っていたなら、私たち親族も全く違った人生を歩んでいたかもしれない。お兄さんは、どんなお嫁さんをもらっていたのだろう❓》