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どんなファミリーにもヒストリーがある

ニッポンのアサガオ

外来種植物が生態系を撹乱している

…というニュースを聞くたび、私の胸はちくりと痛む🩸

 

今を遡る30余年前、イギリスの植物園巡りにハマっていた私は、お土産によく種や球根を買ってきていた。

ひょっとしたら球根などは検疫上NGだったのかもしれないが、そこは知らぬが仏😅

街中の花屋さんで買っていたから何も言われなかったし、規制がある(らしい)のも知らなかった😜

 

種は、思い出すだけでも、ブラックアイ・スージー(本名不明)とか、キツネノテブクロなど。当時の日本はそれほど暑くなかったから、よく育ち、花を咲かせて、私はすっかりいい気になっていた。

職場の人に配ったこともあった。

 

😰…になったのは今年。

ナガミヒナゲシという花が問題になった。

特定外来種に指定されてはいないが、触るとかぶれたり、かなり迷惑になっていると言う。

 

この花の種、持ち込んだの私かもしれない💧

 

20年くらい前だろうか。

イギリスで買った種を育てたら、このケシが咲いた。ひょろりとした茎に薄紅色の小さな花びらが可憐だった。種子がこぼれて発芽したのか、翌年も、その翌年も花をつけた🌱

 

数年後、道端で見かけるようになった。

なーんだ、日本にもある雑草だったのか。

…くらいにしか思わなかった。

 

我が家でも増えてきたので雑草として扱うようになり、今では我が家にはない。

 

私と同じような行動をした人がいたのかもしれないし、何かに種が付着してやってきた可能性も高い。我が家のが発生源とは限らない。

でも、喜んで咲かせた花が嫌われていると思うと、嫌〜な気分になる😨

 

もう一つ。イポモエアと書かれた種を買って来て蒔いたこともあった。こっちは30年くらい前だ。

朝顔そっくりの芽が出て、朝顔と同じように蔓を伸ばしていった。違うのは蔓が枝分かれして末広がりに増えたことだった。

夏になると大輪の、名前通り天国の青とも言えそうな花をどっさり咲かせた😊

《Ipomoea Heavenly Blue、Wikipediaより》

 

日本の朝顔は日差しが強いと萎れてしまう。

したがって朝寝坊の私はなかなか美しいところを見ることができなかった。

が、イポモエアは花びらが厚く、夕方帰宅する私を待っていてくれた。

さらに、9月になって日がどんどん短くなっても衰えることを知らず、支柱を大きくはみ出してブルーの花がそこら中に咲いていた。

 

その年は母の具合が悪く、夏の間ずっと入院していた。

ようやく退院できたのが10月8日前後だった。

猛暑の走りというのか、母が退院した日も30℃近くあった。

庭にイポモエアの花が咲いていた。

 

「朝顔が咲いているのよ」

朝顔も母の退院を待っていたという意味を込めたつもりだったが、暑さもあってか父は怒っていた。

「なんで朝顔が咲いているんだっ❗️10月だぞ」😡

(花に怒っても仕方ないのにね😁)

 

イポモエアはその繁殖力ゆえか、一時はあちこちであのブルーの花を見かけた。一粒の種からあれだけの花が長期間咲いていたら、増えるのは当然かもしれない。

 

しかし現在、私の周りではとんと見なくなった。

 

深青色が庭一面に咲くのも美しいが、日本の朝顔の良いところは色のバリエーションである。青のほか、紫、淡ピンク、濃ピンク、斑入りなど、お隣と違う色が咲くのが楽しいところなのかもしれない。。

 

それにやっぱり、朝顔は朝見なきゃ、ね。

 

父の命日に墓参りに行ったら、朝顔が咲いていた。由緒正しい日本の朝顔だった。

久しぶりに見る朝顔に近寄ってみたら、懐かしい香りがした。

朝顔には独特の香りがある。もう半世紀くらい忘れていた。

 

やっぱり日本の夏には朝顔だろ

…と父に言われた気がした😇

(もう9月も半ばですが😁)

《亡くなった先代の墓守りさんも、ガーデニング好きだったっけ🌻》

 

たかが植物。

でもお持ち帰り&栽培は慎重に🥡

夏の扉🚪

子供の頃、母と地下鉄の工事現場を通りかかると、ひんやり冷たい風が吹いてきた。

「地下は夏涼しくて冬暖かいの。だから地下鉄は冷房も暖房もいらないのよ」と、母は説明してくれた🚇

 

実際、開通してみるとその通り。だから昔の地下鉄に冷房車は必要なかったⓂ️

なんて素敵💓と思った。

さほど昔の話ではない…と思うのは、私だけ?

 

それでも交通手段の冷房化は着々と進行し、私が就職する頃には、銀座線や丸の内線まで冷房化が始まった。

冷房が入っていない電車やバスが来ると「運が悪い」と思ったし、電車を一本スルーする人もいたっけ。

現在、冷房の入っていない車両がやってきたら、相当バズるだろう🤪

 

電車だけではない。

ビルのエントランス、学校の教室、ありとあらゆる建物において、今では、誰もがひんやり冷やされた空気を期待して扉を開く🚪

 

冷房化率の上昇とともにゲリラ豪雨が増えた…気がした☔️

「ゲリラ豪雨」の言葉が誕生したのは、母が入退院を繰り返した頃だったと思う。

父と二人、病院の帰り道、豪雨のド真ん中でタクシーを降ろされたこともあった😰

あの時は「なんて酷い運転手なんだ」と呪ったが、今年の千葉豪雨の後となっては「神」である🙏

 

当時、ゲリラ豪雨の原因を解説するテレビ番組があった。

よく覚えていないけれど、都市化が原因とされていた…記憶がある。

ヒートアイランド現象という言葉が登場したのも、この頃🙄

 

温暖化が注目され始めたのはその後のこと🥵

でもせいぜい1、2℃上がるだけ。だから「温暖化(warming)」などという、口当たりの良い言葉が使われた。

 

今でも覚えている。ある英国人が言った。

「温暖化?ボクたちにとってはありがたいことだけどね」

楽観的だったの英国人に限ったことではないと思う。

世界のあちこちで大惨事を引き起こそうとは🔥

 

空気中の二酸化炭素濃度と温暖化、ひいては異常気象との関係は今では常識となっているが、私は、例えば今、二酸化炭素吸収装置が発明されて二酸化炭素濃度がゼロまで下がっても地球は元に戻らないと思う🌏

 

単に巻き戻しができないだけではない。

二酸化炭素を排出する行為そのものが地球を壊したのではないかと思うからだ。

たとえ二酸化炭素濃度が上昇しても、これほど都市化が進んでいなければ、木が、森が、自然が残っていたら、気温はさほど上昇しなかったのではないか…と私は思う🌳

 

地下鉄がどんどんできたからいけないのではなく、それまでの交通手段では溢れてしまうほど人の往来が増えた。冷房化が悪いのではなく、涼しいはずの地下に冷房を入れなければいけないほど過密になった。そういった積み重ねが地球を壊している💥

 

ゲリラ豪雨の言葉ができた頃から、様々な異常気象現象を経験したのは日本だけではないと思う。

 

「温暖化」も、当初は誰もが「止めなくちゃ」と思ったのに、今や食い止めようなど言い出す人はいない。議論の的はもっぱら対抗策である。エアコンの奨励とか、高温でも育つ作物とか🐻‍❄️

 

温暖化を食い止めるのはとてつもなく大変で、とてつもない経済的負担を伴うであろうことは私にもわかる。

 

でも、異常気象による自然災害の犠牲者たちへの補償や補助を地球規模で考えたとき、これから先に起こり得る事象も考慮に入れると、もしかしたら温暖化を食い止める努力のほうが、容易ではないにしても、長〜い目で見た場合、安価だったりするんじゃないだろうか???

 

ネパールの大規模土石流は地球からの最終警告…と思うのは、私だけ⁉️

「生まれ変わり」の死生学

かつて博識な方に、

「吾輩は中世の考え方が嫌いである」と曰われた。

 

「中世の考え方とはなんぞや」と尋ねたかったが躊躇われ、書物を紐解き鋭意研究に勤しんできた。しかし未だ解答に辿り着いておらぬ。

…と、以前にこんなことを書いたような🙄

 

そうこうしているうちに、AIの登場である🎉

一発で答えが出た。

これほど本を読んでも分からなかったことが一瞬にして分かるのは流石である😉

 

これほどのことに「嫌い」と仰られるのも流石である🤓

 

中世オタクや江戸文化を愛してやまない人、古代文明に目を輝かせる人は私の周りにもたくさんいる。大抵その時代の良い面だけを見ようとしているので「好き」であり、ときに「苦手」と言う人もいる。

でも、「嫌い」と言いきれる人はどのくらいいるだろう。

 

ある文化を「嫌い」と言えるのは、

その文化を骨の髄まで知っている、

または実際、「嫌い」になる体験をした…可能性がある。

ひょっとしたら吾輩様は、前世の記憶を引きずっておられるのではないだろうか。

 

「前世」「生まれ変わり」は今から20年くらい前に “流行った”。

堅〜い肩書を持った人たちが次々、「前世」の存在を肯定する本を出版した。

私も、父も、「死生学」の一環として読んだことがある。

 

どこまでも自分の足で行ってしまう父のことを「前世は犬だった」と母が言った話は以前に書いた。

たしか「ラストソング」に、父が生まれ変わって蜘蛛になった…と私も書いた気がする🕷️

前世が犬、来世が蜘蛛に(勝手に)されてしまった、父の人生っていったい…🤪

 

前世について調査研究している学者さん曰く、幼少の頃までは前世を覚えていることもあると言う。憶えているのは悲惨な死に際などの体験が多いらしい🤔

だから前世の記憶などないほうがいいのだ。

 

吾輩様は中世において、その考え方の齟齬ゆえ惨憺たる人生を送られた

…と考えると、あまりに整合性がとれるではないか🫡

 

「前世」の考え方が人気を集めたのは、簡単には説明できない特異な嗜好や才能のようなものが人間にはあるからだと思う。

 

父はネパールに行った後、ネパールかぶれになった😜

今頃はネパールの大地を犬になって駆け回っているのかもしれない🐕

(土石流、巻き込まれていなけりゃいいけど…🧊)

 

ロシアかぶれ、インドかぶれ、イタリアかぶれ…、日本にはいろんな趣味の人がいる🇮🇹

我が家のお隣さんはハワイかぶれ…らしい🏝️

 

生まれ変わりを肯定するには「霊魂」などの存在を肯定しなければならず、科学技術がどんなに進歩しても不可能かもしれない。

 

ま、証明されないうちは、いろいろ想像して楽しませてもらいましょ😇

「お迎え」の死生学

父が最後に入院して亡くなる少し前、誰かを待っているようだった…と「ラスト・ソング」に書いたと思う。

その時父は、すでに喋ることができなくなっていた。

 

私は毎日病院に行ったが、父は寂しがり屋だったので、もっと誰かに来てもらいたいのかな…などと思っていた。

と言っても、89歳ともなるとお友達も体が利かなくなってきているし、呼ぶのも憚られたし。。

 

でも、最近思う。

ひょっとしたら、父は「お迎え」を待っていたのではないだろうか?

 

父の本棚にある「死生学」について、前回と前々回のブログに書いた。

いかに生き、いかに死ぬか…についての学問である。

「終活」と同義でありそうで、ちょっと違うようでもある。

 

その「死生学」も、父が学んでいた時代すなわち母が亡くなった頃と、現代では違うのではないかと思う(私は1ミリも学んでいませんが😛)。

かつては、「死んだらどうなるか」「あの世とは」について書かれたものも多く、大真面目に論じる人も多かった。

 

もちろん今でもそれは大問題だけれど、現代ではテクノロジーが発達し過ぎて「霊」の存在自体、疑問視されている。現代科学に「霊」の存在する余地はない…かもしれない。

だとすると、死んだらどうなるのだろう?

無、でしょうね😥

 

父が学んでいた頃はまだ、「霊」の存在は信じられていた…と思う。それが生まれ変わりなのか、天国や地獄に行くのかというのは宗教の話になるため、ここでは割愛させていただいて、と🙄

 

私自身、「霊」や「あの世」の存在を疑っている。

一方で、もしかしたらあるかも…と思うのは、「お迎え」である。

正確に言うと「お迎え」があるということは「霊魂」や「あの世」があると言う前提になってしまうのだけど、そこはまあまあ😉

 

父が亡くなった頃に読んだ本に、患者さんが亡くなる前の病室の前に人(?)の列が見えることがあるという記載があった。なんでも「嘘は書かない」と(当然のことを)豪語する、私の高校の大先輩となるノンフィクションライターの書いた本だった。

 

あのときも、私には見えなかったが、父の病室の前にひょっとしたら祖父母や母や、先に亡くなった父の友人たちが「お迎え」に来ていたのかもしれない。父は何かの気配を感じ取り、彼らがいつドアを開けて入ってくるのか待っていたのかも🤔

…と思うようになった。

 

さらに、父が亡くなって1年後に父の姉が、さらに1年経たないうちに父の姪(私の従姉)が亡くなった。

「想像力の暴走するままに推理すると」、寂しがり屋の父は彼女たちを誘ったのではないだろうか?

考え過ぎ⁉️

 

以上、あくまで勝手な想像なので、「…だとすると、〜はどうなるの?」などと言わないでくださいね😜

 

でも「お迎え」が来てくれると思えば、あの世に行く恐怖感も少しは和らぎ…ませんか?

それまでに何をしておくべきか、自分は本当に準備ができているか、具体的に見えてくる…気もしませんか?

 

「終活」という言葉がなかった時代、寿命もずっと短くて誰もがいつ死ぬか分からなかった。そんな頃、先人たちは「お迎え」という表現を使って終活をしていたのかもしれない🚗

 

この世でやるべきことを全うしたら、そのとききっとあの世の方達がぞろぞろとお迎えに来てくれることでしょう😇

 

とは言っても、これを読んでくださっている皆様におかれましては、しばしこの世にとどまられてこのブログを続けて読んでくださいませ🙇‍♀️

父と私の死生学(後編)

「ラストソング」📙以来、ずっともやもやしていたことがあった😶‍🌫️

 

父の晩年、病の影響もあったのか歩行能力は著しく衰え、何度も転倒した。玄関〜門のたった数段の階段も自力で昇降できず、そのために介護タクシーを頼まなければならなかった。

 

それでも、また以前のように…とまではいかずとも、「私に迷惑をかけないように」歩きたいと、毎日ベランダや家の中を歩いた🚶‍♀️

 

父の死後ずっと、あれでよかったのだろうかと私は考えていた。

早いうちに白旗を揚げ、家の中でも車椅子を使えばよかったのではないだろうか。

歩く練習などせず、電動車椅子でも買ってぶんぶんぶっ飛ばしたほうが残り少ない人生を楽しめたのではないだろうか(これがホントの暴走老人⁉️)

 

一緒に住んでいたのが実の娘だったから父は頑張ってしまったわけで、一緒にいたのが妻(母)だったら、父はあそこまで無理をせず、穏やかな晩年になったのではないだろうか

…と😢

 

でも、前回「死生学」についてのブログを書いて、あれが父の「死生学」(の成果)であり「終活」だったのだということに、今更ながら気がついた。

 

前回、「死生学とは、死ぬまでいかに本気で物事に取り組むかということに集約されるのではないか」と書いた。

 

様々なメディアを通して、頑張っている高齢者がゾクゾク、模範例として取り上げられている。

生涯現役で仕事に没頭している人、人々の役に立っている人、パソコンを駆使して自己表現をしている高齢者…

 

すごい❣️しかし、こういう人たちの方が稀であろう。

病気を引き受けることになった人たちややるべきことで手一杯な人たちには、それ以前の問題である。

そのような人たちだって立派に人生を全うしている🎊

 

私が思うには、人間は、肉体という乗り物に“乗っている“ドライバーにすぎないのではないだろうか。

最終的には、自分という乗り物に備わった機能をいかに長く、快適に維持管理するかということが、ドライバーに課せられた責任なのだ🚗

 

父は、自分という乗り物を再び自由に動かすことができるよう、頑張っていたのだと思う。

 

私はかねてより「人間は誰でも一つ以上の課題を持って生まれる」のではないかと考えている。

課題/困難のない人など、いないのではないか…と思ったこともある。

 

容姿や経済的に恵まれた人であっても人間関係だったり健康状態だったり、何かしらを克服すべく必死で生きている。

すんなり生きているように見える人ほど、実は苦労の連続だったりする。

課題が「ご褒美」と一緒に降ってくることも多い。

課題の大きさも様々、一つ解決しても次々と現れることがある。でも誰もがそれを解決「せざるを得ない」。

 

父にとっては、その課題の一つが「歩くこと」だったのかもしれない🚶‍♂️

父は若い頃から取り憑かれたように歩き、走ることに拘ってきた🏃‍♀️

晩年に歩く努力を奪ってしまったら、それは父の大切な課題を奪うことになってしまったのかもしれない👩‍🦽

 

この季節、庭で「ドクダミ刈り」をしていると、ベランダで父が歩く練習をしている…気がしてきたりもする。

あの日々があったからこそ、天国の扉がすっと開いてくれた

…のかもしれない。

 

そう思うと、最近やっと「あれでよかったんだ」と思えるようになってきた😇

何より、ゴーカートもまともに運転できなかった父が電動車椅子などに乗ったら、即、地獄落ち…だったかもしれないし(笑)

 

身近な人の一生や死に方に思いを馳せるのが、死生学の序章で、

エンディング・ノートを書くのが、死生学の最終章…なのかもしれない。

《昔取った杵柄…ホノルルマラソン❣️》

父と私の死生学(前編)

母が他界したとき、72歳だった父は「生と死を考える」セミナーに通ったり、本を読みあさったりして「死とは何か」、「自分はどう死ぬか」を模索し始めた😇

 

「死に方」など、いくら考えても、本を読んでも、そのようにいきっこない…のに。

「死とは何か」なんて、生きている限りは絶対に分からない…のに😥

 

それでも人間は、おそらく知性というものを獲得して以来、この問題を考え続けている…のだと思う。医療が、科学が、発達していない時代に生きていた人たちほど、深く悩んだのではないだろうか。

 

父の72歳という年齢は遅すぎるくらいで、大病を患っていた母は、もっと早くから考えていたはずだ。

 

父の書籍をざっと眺めてみると、「死と生の学問」とは以下の3つから構成される…のではないかと思う:

・宗教的死生観

・死に至るまで、どのように生きるか

・死んだらどうなるか

《父の本は、読むかも…と思ったので取ってあるが、死生学にも流行り廃りがあるようで、なんとなくカビ臭い🤔》

 

私が子供〜思春期の頃は「不治の病」を扱った漫画・小説・ドラマ・映画が大流行し、「生きる」とは何か、薄っぺらそうに見える少女向けメディアの中でも繰り返し説かれた。後になって知ったが、「不治の病」モノはずっと以前から“婦女子”たちに人気があったらしかった。

 

ここ数十年で不治の病の多くが、治る病となった。

しかし死について考える人たちは増えているという。

平和だった昭和末期から、災害が劇的に増え、実際に震災で亡くなった人たちの話をたくさん見聞きし、コロナで突然亡くなる人を目の当たりにした。

そして、戦争の恐怖。

「死生学」は「終活」となり、多くの人が自分の死に向き合い、備えるようになった。

 

さて、死生学を“学んだ“父の晩年はどうだったであろうか。

 

平日の夕食は、買い物も含めて引き受けてくれた。

ピアノを習い始めて発表会にも出た。ハーモニカ、コーラス、社交ダンス、自然観察講座、ダーツ…今、思い出せるだけでもこれだけのお稽古事に励み、旅行やハイキングに出かけ、映画や展覧会にもまめに足を運んでいた。

そうそうボランティア活動にもトライしたが、数回でリタイア。向いてなかったのね😁

 

しかし前にも書いた通り、白内障の手術に失敗して右目の視力を失っただけでなく、残された目も不調が続き、80歳で自己免疫疾患を患ってからは料理もリタイア。出かける機会も激減した。

 

それでも画材店でハガキを大量に買い込み、落書きのような葉書絵を毎日毎日、飽きずに描いていた。

死後、捨てるに捨てられなかったそれらの葉書絵は、現在、インスタグラムで毎週公開中。

「Jiro.712」で検索して是非フォローしてみてください。かなり下手くそでホッとします🤪

《下手だけど味のある絵…を目指していたらしいですが⁉️》

 

最終的には病院通いばかりになってしまったが、「何かに打ち込む」姿勢は変わらなかった。

学習の効果というより、生まれついての性質だったのかもしれない🦆

 

死生学も、結局は、死ぬまでいかに本気で物事に取り組むかということに集約されるのではないかと思う。

 

心身ともに健やかであれば、有意義な人生を送るのは難しいことではない。

やるべきことが後から後から湧いてくる若者が、死を意識することで人生を意味あるものにするのは、さほど大変なことではないと思う。

 

しかし本当に意義ある人生を全うするとは、様々な機能が低下し、やがて失われてしまった後も、そのテンションを失わずに死を迎えられるか…ということではないだろうか。

仕事をしなくとも、人の手を煩わさずに生きられなくなっても、自分らしく生きられるのだろうか。

 

医療が発達し、寿命が延びた今、死生学はより複雑になっている

…と私は思う。

 

ま、何も考えなくとも、お迎えは平等に来るんですけどね😇

築地からTsukijiへ

今は昔。コロナ禍の中を私は精力的に歩いた。

 

最初は、ぎゅうぎゅうになったスーパーを避けるためだった。

第一波が収まり、どのようにしたらうつらないかが、理屈ではなく体で分かるようになってくると、行動範囲はぐっと広まった。

築地、浅草、鎌倉…過去ログを見ると懐かしい⛩️

 

規制は緩くなったが外国人の少なかった頃には京都や高尾山、富士山(5号目)にも行った。銀ブラも存分に楽しんだ 🗻

多少混んでいても、同じような体格で同じような歩幅、同じ言語を使う人たちの間では安心感があった。買い食いする人も少なかったし、ゴミで街が汚れることも(少)なかったと思う。

 

しかし最近は、どこもかしこも外国人観光客でいっぱい👩‍🦱

 

築地場外市場も、もう行かない❗️

つもりだったが、別ブログの写真撮影のため、意を決して行ってみた。

…由々しき事態となっていた😥

 

そこは私の大好きだった築地ではなく、アジアの屋台村と化していた。

もはや日本人がランチを食べたり食材を揃える場所ではない。

 

歩いているのはタンクトップやTシャツに短パン、サングラスをかけたガタイのデカい外国人ばかり。皆、目をキラキラさせて串刺しのメロンや肉にかぶりついていた🍖

《もはや魚市場ではない》

 

《築地とTsukijiの交差点?》

美味しかったラーメン屋や寿司屋は、日本人は絶対に入らないであろう寿司屋へと変わり、

路地で売られている食べ物も、日本人だったら絶対に買わないであろう。

わずかに残る昔ながらの店は、高齢となった店主の生き甲斐として続けられている感がして、切なくさえ感じてしまう😥

《絶滅危惧ショップ》

《日本人だったら絶対に買わない…と思う。》

 

ほんのちょっと前は、築地に行くと大きなエコバッグを担いで帰って来た私も、何も買わずに退散した🐟

 

まあどっちにしろ、本体の市場は豊洲に移転してしまったのだし、存続しているだけありがたいよね

…と思いつつも、我が家のパラダイスが外国人の有頂天な笑顔に侵略されてしまったような気がして、

そして刺身の良し悪しも分からない(であろう)彼らを餌食(言葉が悪くてごめんなさい)にしているような商売人たちに、やりきれない思いばかりが残った。

 

外国人観光客が街を塗り替える。

世界中で起こっている現象だ。

 

かつて日本人の間でブームになった、オーストラリア🐨

20代だった私も訪れた。

シドニーの街中では、“あの”Tシャツやオパールを売る店の看板は日本語表記、入ってみると店員は日本人。どこへ行ってもVIP扱い。飛行機は大名気分の日本人で満員だった。

私たちはどう思われていたのだろう❓

 

コロナが終わって観光客が怒涛のごとく流れ込んできた。彼らを相手にした商売は景気がいい。おかげで高齢化でも経済は潤っている。

さらに日本に好印象を持って貰えば、外交にも有利だろう。

日本の文化に親しみを持ってもらえるのは素晴らしいことだ。

(ただし現在の場外市場が日本の文化と思われるのも…だけど😥)

だから、築地がTsukijiになっても文句は言えない🍣

 

コロナが明けて気の合う人たちと喋ってみると、さすが類友(?)

沖縄に家族旅行して、「安くてよかった〜😍」と語る方もいた。

それを聞いて「今度、コロナになったら私も行こう❣️」と私😜

「今度はいつだろうね?」と楽しみにする方(?)

どうやって行ったのか、海外旅行の話をする人までいた😳

 

しかし、それでも感染症はノーモア・サンキュー😷

エボラやハンタがやってきたところで、築地は戻って来ないのだし💧

《コロナ禍の築地場外市場》

《2018年以前の築地場内市場 モリナガ・ヨウ「築地市場」表紙》