父が最後に入院して亡くなる少し前、誰かを待っているようだった…と「ラスト・ソング」に書いたと思う。
その時父は、すでに喋ることができなくなっていた。
私は毎日病院に行ったが、父は寂しがり屋だったので、もっと誰かに来てもらいたいのかな…などと思っていた。
と言っても、89歳ともなるとお友達も体が利かなくなってきているし、呼ぶのも憚られたし。。
でも、最近思う。
ひょっとしたら、父は「お迎え」を待っていたのではないだろうか?
父の本棚にある「死生学」について、前回と前々回のブログに書いた。
いかに生き、いかに死ぬか…についての学問である。
「終活」と同義でありそうで、ちょっと違うようでもある。
その「死生学」も、父が学んでいた時代すなわち母が亡くなった頃と、現代では違うのではないかと思う(私は1ミリも学んでいませんが😛)。
かつては、「死んだらどうなるか」「あの世とは」について書かれたものも多く、大真面目に論じる人も多かった。
もちろん今でもそれは大問題だけれど、現代ではテクノロジーが発達し過ぎて「霊」の存在自体、疑問視されている。現代科学に「霊」の存在する余地はない…かもしれない。
だとすると、死んだらどうなるのだろう?
無、でしょうね😥
父が学んでいた頃はまだ、「霊」の存在は信じられていた…と思う。それが生まれ変わりなのか、天国や地獄に行くのかというのは宗教の話になるため、ここでは割愛させていただいて、と🙄
私自身、「霊」や「あの世」の存在を疑っている。
一方で、もしかしたらあるかも…と思うのは、「お迎え」である。
正確に言うと「お迎え」があるということは「霊魂」や「あの世」があると言う前提になってしまうのだけど、そこはまあまあ😉
父が亡くなった頃に読んだ本に、患者さんが亡くなる前の病室の前に人(?)の列が見えることがあるという記載があった。なんでも「嘘は書かない」と(当然のことを)豪語する、私の高校の大先輩となるノンフィクションライターの書いた本だった。
あのときも、私には見えなかったが、父の病室の前にひょっとしたら祖父母や母や、先に亡くなった父の友人たちが「お迎え」に来ていたのかもしれない。父は何かの気配を感じ取り、彼らがいつドアを開けて入ってくるのか待っていたのかも🤔
…と思うようになった。
さらに、父が亡くなって1年後に父の姉が、さらに1年経たないうちに父の姪(私の従姉)が亡くなった。
「想像力の暴走するままに推理すると」、寂しがり屋の父は彼女たちを誘ったのではないだろうか?
考え過ぎ⁉️
以上、あくまで勝手な想像なので、「…だとすると、〜はどうなるの?」などと言わないでくださいね😜
でも「お迎え」が来てくれると思えば、あの世に行く恐怖感も少しは和らぎ…ませんか?
それまでに何をしておくべきか、自分は本当に準備ができているか、具体的に見えてくる…気もしませんか?
「終活」という言葉がなかった時代、寿命もずっと短くて誰もがいつ死ぬか分からなかった。そんな頃、先人たちは「お迎え」という表現を使って終活をしていたのかもしれない🚗
この世でやるべきことを全うしたら、そのとききっとあの世の方達がぞろぞろとお迎えに来てくれることでしょう😇
とは言っても、これを読んでくださっている皆様におかれましては、しばしこの世にとどまられてこのブログを続けて読んでくださいませ🙇♀️











