「こっこちゃん」と、幼い私は一番上のいとこを呼んでいた。
家族以外で初めて私が口にした固有名詞ではないかと思う。
こっこちゃんとはひとまわり以上の年の差があって、私が物心つく頃、こっこちゃんはすでに「お勤め」していた。
お勤め帰りに、よく我が家に寄ってくれた。色とりどりのお菓子(主に駅前のサカイヤの袋菓子だったと思う)を買ってきてくれて、私はこっこちゃんが来ると飛び出してお迎えした。
こっこちゃんはよく私の遊び相手をしてくれた。
本を読んでくれたこともあった。
今でも覚えているのは「せかいのいじん」という本の、(確か)「シュバイツァー」の冒頭、「ピールルピーピー」という鳥の鳴き声がツボにはまって、何度も何度も読んでもらったこと。
やがてこっこちゃんはお嫁さんになった。私が5歳か6歳の頃。
生まれて初めてみる「お嫁さん」に私はドキドキした。真っ白なウェディングドレスを着たこっこちゃんは綺麗だった。私は披露宴で、拙いながらもピアノを弾かせてもらった。
《花束贈呈》
いとこの中で一番幼かった私に、初めて赤ちゃんを見せてくれたのもこっこちゃんだった。こっこちゃんが産んだ男の子は、祖父母にとって初めての曾孫。祖父はその写真を帽子の中に入れていつも持ち歩いていた。
こっこちゃんの人生は、ちょっと見には平凡だったけれど、実は波瀾万丈だった。
生まれてすぐに母親が亡くなり、一時祖母が親代わりとなって育て、その後は伯母が母親となった。粉ミルクのなかった時代。祖母曰く「お米の粉を水で溶いて飲ませたんだよ」。
そんな経緯もあって、こっこちゃんは祖父母からも父のきょうだいからも特別に愛され、何か起こると皆で守っていたように思う。
こっこちゃんは、子供達にとっての母親、孫たちにとっての “ばあば” であっただけでなく、一族にとっての娘であり、妹であり、姉であり、アイドルであり、守護天使的存在でもあったのではないかと私は思う。
母の闘病中、菓子パンをいっぱい持って来てくれたのも懐かしい。
バレンタインデーには、父にチョコレートを贈ってくれた🧡
そんなこっこちゃんが病に倒れたのは3年前。
医学が進歩した今日にあって難しい病気ではないと私は楽観視していたのだが、体力に余力がなかったのか、家族親戚一同の祈りも虚しく亡くなってしまった。
父が亡くなって一年後に伯母(父の姉)が亡くなり、それから一年と経っていなかった。
我が家のお墓に、祖父母とこっこちゃんのお母様の一部が入っていることもあり、これからお墓参りは一緒に行こうと言ってくれていた。お彼岸のお墓参りの数日前にこっこちゃんは倒れ、うわごとでお墓参りを気にしてくれていたと聞いた。
私も、今度はどこに寄り道しようかと楽しみにしていた。残念でならないです💧
無宗教の私の妄想にすぎないが、三途の川を渡る船に乗った父と伯母が、「一緒に乗らないか?」と、船着場でこっこちゃんを待っていたんじゃあるまいか…と考えてしまうことさえある。
「迷うといけないから」「遠路一人じゃ、寂しいだろう」はたまた「もうすぐ伝染病が大流行するぞ」「こっちはマスクしなくていいぞ」…口々に言いながら、あの世の皆さんが手を差し出している絵を思い描いてしまったりする。
そして最後にはきっと、お母様がぎゅっと抱き寄せたに違いない。
「大きくなったね」と。
もっと遊びたかったのに🥰
合掌。
《もっと、もっと、もっともっと遊びたかった❣️》