「ラスト・ソング」を学生時代の友人たちにも配り、そのうち何人かと懐かしの再会を果たした。
中学時代の友人、メンマちゃんとも青山のオシャレなカフェで何年かぶりに会った。
間にお散歩をはさんで約7時間、カフェのハシゴをしながらずうっと話していたので、細部は失念してしまったが、
彼女のお父様も、父と同じ頃に亡くなったそうだ。
パーキンソン病(だったと思う)を病み、最後は肺炎(だった?と思う)で亡くなった。
最期の入院の時、お父様は、看護師さんの制止を振り切って何度か起き上がり、立ち上がろうとしたという。暴れるのでベッドに括りつけられたが、それでも抵抗していたらしい。お父様が、病気のためによく回らない口で必死に「トイレに行きたかっただけなのに」と訴えていたの…と彼女は言った。
どのような状態になっても、人は、自分の力で用を足したいものなのだ。私はその話を聞いて涙がこぼれた。患者の家族は遠慮してしまうものだ。忙しそうに働く彼女たちに、患者の「ワガママ(じゃないと私は思うんですけどね)」など言い出せない。
せめて、看護師さんが、ベッドに括り付ける前に「どうして暴れるの?」と耳を傾けてくれれば。
(おそらく最期となった)ささやかな望みを叶えてくれれば。。。
父の姉は92歳で亡くなったが、亡くなる2、3日前(だったと思う)まで自力で用を足したと言う。これを聞いたとき、私は、「羨ましい亡くなり方だ」と思った。
「ピンしゃんコロリ」については別に書こうと思っているが、「ピンしゃんコロリ」が難しくなりつつある昨今、なるべく最後まで自力で排泄できるのがしあわせな亡くなり方に思える。
最近は、転倒を恐れて無理矢理オシメをされるという話を聞く。それも濡れたら交換するのではなく、時間で交換する施設もあるらしい。私も、マグロさんからオシメの話を聞くまでは、それでもいいじゃん…と思っていた。今どきのオシメは一晩分吸い取ってくれるらしいし、それでぐっすり眠れるならゴクラクじゃん!と。
でも、それが人間の尊厳と言っても言い過ぎではない、精神的に重大なものをけがすことにもつながることが、今となっては理解できる。
「ラスト・ディナー」に何を食べたい? という議論があちこちでされている…と、私も「ラスト・ソング」に書いた。
でも、しあわせな人生の最期の決め手となるのは、どんな「ラスト・ディナー」を食べたかよりも、どんな「ラスト・トイレット」だったのか…なのかもしれない。