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「ラスト・ソング」のその後

春の光に

地下鉄サリン事件から25年。

被害者の一人、サチコさんが亡くなったという。サリン中毒で寝たきりになり、お兄さんの看病で後遺症と戦っていた。彼女の話を知ったのは事件の数年後。他人事とは思えなかった。

 

事件当時、父は築地市場に通っていたと「ラスト・ソング」に書いたが、私の職場も築地にあった。事件の数日前、霞ヶ関駅で水蒸気(?)が発生される事件があり、後になってそれがサリンの予行演習(?)だったことが分かった。あれが本番だったら、私も確実に巻き込まれていた。

 

が、私は無事だった。

私は当日、それまで良く働いた「自分へのご褒美」に、年休をはたいてイギリスに2週間の超短期語学留学に行っていたのだ。

実は、英語を勉強しようという気持ちなどさらさらなく、ちょっと長めに外国に行ってみたかったにすぎない。HanakoというOLに人気の雑誌をパラパラめくっていたら、イギリスには語学学校がたくさんあり、ドミトリーやホームステイを提供してくれるということを知り、ブリティッシュ・カウンシルに行って学校を探した。ロンドンには適当なところが見つからなかったが、ロンドンから1時間で行けるオックスフォードにナイスな学校があったので、早速申し込んだ。心配していたホームステイ先も、おばあちゃんの一人暮らしと聞き、祖母と長く同居していた私はワクワクしておばあちゃんに「よろしくお願いします」と手紙を出した。

 

その年は特に、春が早く訪れたようだった。色とりどりの花を詰め込んだハンギングバスケットがオックスフォードの街のあちこちに下げられ、古い街並みの合間では黄金色に輝く黄水仙が春風に揺れ、フワフワの、淡いピンク色をした花がここかしこの木塀からのぞいており、朝は鳥の鳴き声で目が覚めた。

まずいことで有名なイギリスの食事だが、おばあちゃんの作る料理は絶品だった。この世の天国を味わっていた私がある朝、聞いたのが、日本で起きた地下鉄サリン事件だった。

 

インターネットは(あったかもしれないが)一般に浸透していなかった。BBCのニュースに必死に耳を傾けたが聞き取れず、読んだことのなかった英字新聞を広げたが、さっぱり概要がつかめなかった。新聞には「Kamikuishiki」という地名が印刷されていたが、どんな漢字を書くのかさえ、見当がつかなかった。テレビに麻原彰晃が映っていたが、英語の解説が被せられ何を喋っているのかわからなかった。新聞の写真は私が通勤に使っている駅のようだったが、何がどうなっているのかさっぱりわからない。家に電話をして、家族や知人に被害者がいないことを知って、取り敢えずはホッとした。

 

たったの2週間にすぎなかったのに、帰ってみると日本の空気は戦々恐々としたものになっていた。

駅のゴミ箱は消えて、「不審物を見かけたら…」の車内放送が聞こえてきた。

街の人たちは、警戒の表情を浮かべて足早に歩いていた。

異臭騒ぎが相次ぎ、電車の中にレジ袋の置き忘れがあっても駅員に通報された。

実際に事件に遭っていなくても、締め切った電車内や室内にいられないという人がたくさん出たらしい。

待ちに待った春の光に、見えないはずの毒ガスの分子がどこか浮かんでいるような気がした。

それは、姿の見えないウイルスに誰もが怯えている今年と、そっくり同じだ。

 

やがてオウムの犯人たちが逮捕され、日本に平和が戻ってきた。

英国中毒になった私は、その後何度もイギリスを訪れ、「BBCの英語なら分かりやすいし~」などと偉そうな口をきくようになった。

 

でも、その間も、被害者の人たちは後遺症と戦っていたのだ。

サチコさんほどではなくとも、神経毒のサリンは不快な症状を後々まで残す。

多くの人たちが、人生の醍醐味であるべき25年間に、苦い水を飲まざるを得なくなった。

 

私と同じ年頃の、同じような服を着て、同じような髪型をして、同じような持ち物を持って通勤していた女の子たちがたくさん被害にあった。

麻原の気分がちょっと変わっていたら、私も彼女たちの一人になっていたかもしれない。

こんな事件は二度と起こってはいけない。

サチコさんのご冥福をお祈りします。