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「ラスト・ソング」のその後

親のモノを片付けながら(その3)

両親は揃いも揃って荷物が多かった。

たった一泊の家族旅行に行くにも、夜逃げのような大荷物を持って行った。

僻地に行くわけではない。観光地にある日本旅館だ。浴衣、タオル、歯ブラシ…なんでも揃っている。のに、大きな旅行カバンを “一人1個以上” 持って行く。

 

父は、旅行でなくともリュックサックを愛用していたし、晩年は “ポケットだらけ” のベストがお気に入りだった。大切なものは全て身につけてしまおうというのだ。そのベストも、すでにたくさん持っているのに、よりポケット数の多いものを見つけると買ってしまう。部屋の中にベストの山ができていた。

 

そんな親に育てられた私も、荷物が多かった。学校に行くときは家出少女みたいだったし、就職してからも “毎日が旅行” だった。しかも減らすという発想はなく、たくさんの荷物を格納してくれて且つすっきり見えるバッグを常に探していた。(当時のOLに人気のブランドの “ハンドバッグ” には、2段重ねのお弁当箱もウォークマンも収まった。)

 

そんな私の目が覚めたのは、30歳を過ぎてから。

2週間、イギリスに語学留学に行ったのだが、その帰り、空港でスーツケースを失くしてしまった。私の勘違いと不注意のせいだった。

それでも大切なものはリュックの中に詰め込んで身につけていたので、「思い出を思い出すためのエッセンス」は持ち帰ることができた。

 

帰国して気が付いた。旅の思い出というものはスーツケースと一緒に失われるものではないのだ。

私にとって旅行は、土産物を買ったり、写真を公開するためではなく、見たり、食べたり、感じたりするために行くもの。旅の経験は記憶として私の中に積み重なっていく。たとえ忘れてしまっても、感じたことは形を変えて、私の中に残る。

何より大切なのは、旅を楽しむこと。荷物が多くなっては楽しみも半減する。

 

モノはいつかはなくなるものだ。今、ここにあるものも、いずれ私のもとを離れていく。だからと言って粗末に扱ってはいけないけれど、しがみついていても仕方がない。

大切なのは「自分がある」という事実だ。モノを介して得たものは自分の中に何らかの形で蓄積している。

自分さえあれば、モノは集まってくる。今が快適であることが大切なのだ。

 

そして、思った。

今、身の回りにある「私の大切なモノたち」も、私の人生という旅路のスーツケースの中身にすぎないのだと。