「ラスト・ソング」の表紙イラスト(一部)と、オープニング、第1章、2章の扉絵は母が、第3章の扉絵は私が描いた。
母は父より17年前に他界しているので、本を出すことを想定して描いたものではない。母が描いたものを捨てられずに持っていただけのことだ。
私が高校生のとき。
そこら辺に置いてあった新聞広告のウラに、祖母や父の似顔絵イラストを描き、吹き出しもつけてみた。母も面白がってノッてきた。カチンときた言動、面白かったこと、食事が終わってテレビを見ながら、二人で描いた。
不思議なことに、描くとスッキリした。穏やかそのものの母だったが、祖母や父に対するストレスは溜まっていたらしい。お互いの作品を見せあって楽しんでいた。
描くことを目的にしているわけではなかったので、スケッチブックや画用紙のようなものは一切使わず、広告の裏紙、下着やストッキングに入っている台紙…そのような紙に、そこらへんにあるペンでサラサラと描いた。母は、私の絵も描いた。私は、学校の先生の絵も描いた。
てっきり捨てたと思っていたこれらの落書きを、捨てるのが苦手な母は全て大事に取って置いていた。
母が亡くなった後、箱一杯分の落書き…イラストが発掘された。
モデルとなった祖母も、楽しそうに描いていた母もいなくなった後、これらの落書きは我が家の「家宝」となった。
「ラスト・ソング」作成中、「表紙をどうしますか?」と聞かれたとき、母のイラストを思い付いて、探した。久しぶりに見る、母の描いた絵は、ストレス解消に描いたとはいえ、家族への愛情に溢れ、やさしいタッチで本のイラストにぴったりだった。
特に、ダンスにハマって踊るポンポコリンだった父と私を描いた絵は、将来娘がこういう本を出すことを予見していたのではないかと思うほど、ぴったりだったので、それに、私が頑張ってオムレツの絵を付けた。(あんな単純な絵でも、何枚も描いたうちの1枚だったんです。)
私の絵もたくさん出てきたが、下品で、とても人様にお見せできないものばかりだった。
父の晩年に描いた「歌ジイ」の絵を一枚だけ加えることにした。大震災のとき、揺れがおさまってからもまだ歌声喫茶でノーテンキに歌い続けた父を、私が ”皮肉を込めて” 描いた絵だった。
(最近の情報では、交通機関の状況によってはその場に留まることが推奨されるので、歌うのだったら翌朝まで歌うべきである。)
先日テレビを見ていたら、これと同じようなことをしてSNSで発信していた女性がいると言う。これは我が家に限った現象ではなかったのだ!ただしテレビに登場した女性の絵は、もっとアーチスティックだったが。
さらにテレビを見ていて、私が本を書いた経験や心理とオーバーラップする話がたくさん出てきて、驚くばかりだった。
アウトプットすることでホッとしたり、新たな発見をしたりするのは、人類共通の現象だったのだ。
かつては密かなる楽しみだったのが、今はネットの恩恵で知らない人と気持ちを共有できる。
そして、気がついた。
私が「ラスト・ソング」を書こうと思った原点は、母と描いたあの落書きにあったのだ。
そうそう、「ラスト・ソング」を読んでくれた友人が、「表紙イラスト:オムレット母&娘」という記載を見て、「娘、いたっけ?」と聞いてきた。
なるほど。年齢を考えれば、もっともな反応だ。