師走と睦月は、「お悔やみ月」。
喪中ハガキを受け取り、寒中見舞いを受け取り、友人知人の亡くなったことを知る。
父が亡くなったときも、この季節にお香典やお供え物をいただいた。
葬儀が終わり、お返しも送ってホッとしたのも束の間、またデパートに走ったものだった。
いやいや、こちらがいけないのです。葬儀の知らせを出さなかったのですから。
そのように慌ただしい中、いただいて嬉しかったのは手紙だった。私の知らない父の一面を知ることもできたし、父が皆さんと楽しくやっていた様子を想像することができた。
お悔やみの気持ちを、そのまま受け取ることができた。
という経験から、父の亡き後は、訃報を受け取り、葬儀に参列できなかったときは、お花や品物を一緒に送ることもあるけれど、手紙は必ず書くようにしている。
ひょっとしたら、こんな手紙より御香典の方が嬉しいんですけど…と言う人もいるかもしれない。
でも、故人に向けて一生懸命に文字を書いていると、なんとなくあの世にも届きそうな気がしてくるのだ。ゆったりと故人のことを思い出すことが、ご供養になりそうな。
年が明けて、高校時代の恩師の訃報を受け取った。
91歳。年賀状をいただいていたので、無事に年を越されたと思っていたが、賀状を出された後、亡くなられたようだった。葬儀も終わっているようだったし、何より、看取られたのが(ほぼ)同い年の旦那様。お子さんはおられない。このタイミングでお香典やお花を送っても困惑されるのではないかと思った。
そこで、先生との思い出を綴った手紙だけを送ることにした。
が、これが1月8日にして “今年一番の難事” であった。
旦那様は、恩師の先生と同じ高校の、(私の記憶が正しければ)「国語の」先生だったのだ。
私は習ったことはなかったけれど、廊下ですれ違ったりした記憶では、スラッとダンディー。だが笑った顔の記憶はなく、真面目な学者タイプ。
しかも90を過ぎても(私の推測が正しければ)頭脳はしっかりしておられる様子。
50を過ぎた女が、お粗末な手紙を送ることはできない。誤字脱字などもっての外…って感じだ。
そもそも私は文字がお粗末である。せめて文章だけでもきちんと書かねば。
ということで、下書きをパソコンで打ち(誤字防止に必須)、一晩ねかせて(私の場合、これも必須)、丁寧に清書をした。書き終わったとき、首と肩と手首がガチガチに凝って、眼は霞んでいた。
それでも気持ちが伝われば甲斐があるというものだけど、「なんじゃ、これ⁉︎」と思われていたらどうしよう… (・・;)
先生には、(私の文章能力に関わらず)できれば国語の先生より1日でも、長生きしてほしかった。
先生の御冥福をお祈りします。