Last Song Latest

「ラスト・ソング」のその後

江戸の花火   

晩年の父は、「仕事は何をされていたんですか?」と尋ねられると、「築地でマグロの仲買をしていたことがあった」と(親しい付き合いをしたい人には)答えることもあった。豊洲移転で注目されていた築地ともあって、皆さん「へぇ~」と興味津々であった。

でも皆さん、気がつかれただろうか? 仲買を「していた」ではなく「していたことがあった」と父が言っていたのを。

 

父は40年余ホワイトカラー一筋だったが、65歳を過ぎてから1~2年だけ、稼業にちょっとだけタッチした。それも、タッチしたのは経理で、マグロに触れていたのは従業員さんたちだったのだけど。

「会社員でした」と言ったんじゃ面白味がないだろう…と父は言うのだろうけれど、心の底には誇りがあったのではないだろうか。

 

さて、父の父、つまり私の祖父は日本橋生まれの生粋の江戸っ子。日本橋そして築地の魚河岸で仲買人をしていた。

昔は近海物、戦後になってからマグロを扱っていたと言う。

世の中が週休二日制になっても生鮮食料品を扱う市場は週休一日、冷蔵庫・冷凍庫が普及する前は元日以外は休みがなかったと聞いたことがある。

 

昭和50年7月中旬まで元気で働いていたが、体調を崩し、7月27日未明に脳卒中で倒れて救急搬送され、8月3日に空の星となった。81歳だった。

 

倒れてから亡くなるまでの1週間、祖父は病院のベッドに横たわり、祖母は、(確か)一度家に帰ってきただけで、あとはずうっと祖父の傍らにいた。

 

でも祖母は一人ではなかった。当時、中小の病院には「付き添いのおばちゃん」が常時いて、個人的に契約を結ぶ。彼女たちは病室の中に仮ベッドを組み立てるか、ベッドの下に床を敷いて泊まり込み、昼夜、面倒を見てくれた。祖父母の娘や孫たちも交代で訪れてくれていた。暑い盛り、71歳の祖母にはしんどかっただろうと思うが、サポートも厚く、その後も体調を崩すことはなかった。

 

コンビニはあったが、現在のようなお弁当類は売られてなかったし、ペットボトルも世に存在していなかった。母が家でおにぎりを大量に作り、お茶やお漬物と一緒に私が病院に運んだ。血縁者だけでなく、昔、祖父母のもとで住込みで働いてくれた「シチや(下記参照)」のおばさんなど、多くの人たちが病院や我が家に出入りして支えてくれた。一年で一番暑い時期。今ほどではないにしても猛暑続きで大変だったけど、まるで一大事業を親戚チームで成し遂げているようだった。

 

初めて人間の死に際に立ち会うことになった私の記憶はところどころ妙に鮮やかで、温度、湿度や匂いまで思い出すことができる。

今日明日がヤマだと言われた夜、両親も病院に詰め、私は(病院には連れて行ってもらえず)「シチや」さんと、従姉の息子と留守番をすることになったが、3人して「きわどい」テレビ番組に釘付けになってしまった。その時の二人の表情は今でも思い出して笑ってしまいそうになる(絵心があったら描きたいくらいだ)。それなのに、その晩、祖父が逝ったのか否かは定かでない。

 

祖父のような状態になった者が、当時どのくらい生きたか知らないが、1週間というのは介護者にとっては最適な期間だったし、介護者が孤立することも少なかった。介護の資格もシステムもなかったけれど、皆が自分にできることをやった。そうしているうちに、それぞれの心の中に、祖父を送り出す覚悟を築いていたのかもしれない。

 

「今の時代だったら、きっとおじいちゃんは助かって、退院して、あと10年くらいは生きられたかもね…」と祖父に言ったとしたら、「そうだな、もっとマグロが食べたかったけど、おばあちゃんや子供達に囲まれて、いい最期だった。81歳まで働けたんだし、おじいちゃんはあれでよかったよ」と答えてくれるんじゃないかな…と思うことにしよう。

 

マグロは生きている間はずっと泳いでいると言う。

マグロのように死の1ヶ月までずっと働いていた祖父、

最期は江戸の夜空を彩る花火のように、パッと散った。

 

 

〔参照・本名は「シチ」さんだったが、昔は名前に「や」をつけて呼んでいた。雇用関係がなくなった後は「シチや(のおば)さん」と呼んでいた。〕

 

f:id:auntmee:20191025083540j:plain

結婚式の日。27歳くらい?