梅雨寒の、週末。夜10時を過ぎた。
救急車のサイレンが近づいてくる。
音が大きくなるにつれ、イヤ〜な気分がよみがえってくる。
父の発熱で救急車を呼んだのも、土曜日の夜10時を過ぎていた。
サイレンの音はますます近くなり、我が家の前で停まった🚨
くるくる回る赤い光がカーテン越しに入ってくる。
「呼んだっけ?」…いやいや、そんなはずはない。
カーテンを少しだけ開けてみると、お向かいの旦那さんが救急車に駆け寄って行くのが見えた。
心配になって少しの間観察することにした。
決して野次馬根性ではない。長い間お付き合いのあるお向かいさん。心配だった。
奥さんは確か、一番上のいとこと仲が良かった。いとこと同い年だったかもしれない。
家に入って行った救急隊員はなかなか出てこなかった。
私の経験では、10分もすれば出てくるはずなのに。
どうしちゃったんだろ…心配が募った。
30分くらい経っただろうか、ストレッチャーに乗った奥さんが現れた。夜目遠目にはそれほど悪いようには見えなかった。
旦那さんが同乗して救急車は発進した。
父に同乗して病院に行った日が生々しく思い出された。
後になって、あの30分ほどの時間は、コロナの抗原検査をしていたのではないかと思った。
1秒を競う状態でなければ、検査をしてから病院を決めるのかもしれない。
この辺りはマンション乱立で人口がかつての10倍以上にも膨れ上がっているはずなのに、救急病院は減る一方だ。
祖父、祖母、母、父と救急車を呼んだことがあるが、母以外、運んだ病院は今は存在しない。
かかっている病院があればいいけれど、このような状況下ではどこに運ばれるかわからない。
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10年ほど前、右足を骨折した。
捻挫だと思っていたので一晩冷やして様子を見たが、よくならないので歩いて行ける病院に行った。
レントゲンを撮ったら骨が折れていた。ひーちゃんみたいな看護師さんが樹脂で固定してくれて、松葉杖のつき方を教えてくれた。
2週間後、病院に行くと先生は消えていた😢
「呼吸器外科の先生でいいですか?」と言われ、「嫌です」と言えず、固定を外すまで呼吸器外科の先生に診てもらった。
外科医とつくが、先生の専門は呼吸器の手術であって、足の骨折は専門外。私が治るまで代わりの医師が来ることはなかった。
数週間後、完治宣言されたがなんとなく心配で、バスに5個ほど乗ったところの整形外科専門病院で一応診てもらうことにした。
行ってびっくり🤪
近所の病院が昭和の病院とすると、こちらは平成の病院だった。
設備は段違いに整っているし、先生も知識豊富で、最初からこっちに罹っていれば…と思った。
他の怪我だったら予後に差が出ていたかもしれない。
あれから10年。
「昭和の病院」は令和の到来とともに消滅し、内科だけがクリニックとして残った。
(なのでこのブログを公開することができるのです。)
今でも思い出されるのは、私が最初に受診に行ったとき、おばあさんが救急車で運ばれてきたことだ。ストレッチャーの上で身体を丸めていた。
救急隊員が「圧迫骨折のようです」と言うのが聞こえた。
私と同じ先生が診られたようだったが、おばあさんもその後、呼吸器外科の先生が診察されたのだろうか?
無事に退院することができたのだろうか???
病院がなくなった今、救急車に乗ってそこに運ばれる心配なはくなったけれど、何かあったらどこに運ばれるのだろうという心配は解消されていない。
私にとってこの世の「怖い話」だったけれど、もしかしたら整形外科の診察をすべて任されてしまった呼吸器外科の先生にもこの上なく怖い話だったに違いない。