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「ラスト・ソング」のその後

病院小咄

昔、聞いた小咄にこんなのがあった。

病院の待合室に集まっている、じいちゃんばあちゃんの会話だ。

「あれ、今日は〇〇さんがいないけど、どうしたんじゃろ?」

「病気じゃないかい?」

 

老人医療費が無料の時代、どう見ても元気なのに毎日のように病院に集う年寄りを揶揄した小咄だったが、今でも的を得ている。本当の病気になると病院に行くのも辛くなる。病院に行けるということは、それだけ気力・体力があるからだ。

 

「検査」もまた、病人/老人には苦行である。

健康体のときは何でもなかった検査が、辛く、危険にさえなる。

胃のバリウム検査がそうだ。健康なときは検査も、バリウムの排泄もなんでもないが、筋力が衰えくると撮影台上で頭を下にして腕の力だけで自分の身体を支えるのが大義になる。腸の運動機能が低下した者ではバリウムが全て排泄できずに固まって、救急車を呼ぶということもあり得る。

 

父は、体力が衰えたとき、大腸内視鏡検査をやりたくないと言いはり、結果、医師と揉めた。

医師は、父があれほど頑固に検査を拒否する理由が分からなかったようだったが、この検査を受けたことがない私でも、脚力が弱った状態で何度もトイレに立つのは苦痛であろうことは想像できた。しかも、下剤のおかげで便はゆるいのだ。もたもたしていると大変なことになる。

 

検査法や検査機器の進歩で、様々な情報が得られるようになり、様々な病気が分かるようになった。だからと言って、必ずしも患者の負担が軽くなったわけではない。

 

医者はよく、「簡単な検査ですから」と言う。決して気休めではなく、一つ間違えば命取りになるような、もっと難しい検査をたくさん知っているからだ。でも、「簡単な」検査も、「簡単ではない」検査も、検査をよく知らない患者にとっては同じくらい驚異/脅威であり、理解力がついていかない人には同じくらい難解で、身体が思い通りにならない人には同じくらい苦痛を伴うものなのだ。「簡単な」は医師の主観にすぎない。

 

さらに、患者にとって検査は不安の入り口でもある。

結果が出たらどうなるのだろう。さらなる検査があるのだろうか。病気が見つかったとしたら、どんな治療をするのだろう…不安をいっぱい抱えながら検査を受け、結果が出るまでの間も心は重い。

 

医師の立ち会いを必要とせず、寝ているだけでいい「簡単な」心電図検査でも、初めて電極を装着された人は不安で力んでしまい、なかなかOKが出ないこともある。

採血の針を刺しただけで卒倒してしまう人もいる(主に若い男子)。

尿を取るだけの尿検査も、取るのに四苦八苦する人がいる。

医療従事者にとって「簡単な」検査は数多あっても、万人にとって「簡単な」検査などないのかもしれない。

 

皆さま、検査は是非、お元気なうちに。