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「ラスト・ソング」のその後

死を受け入れる

少し前になるが、在宅医療と在宅死の話をテレビ(NHK BS1)で放送していた。

【タイトルも分からず途中から見始めて、ニュースに中断され、そのまま見るのをやめてしまったので、全部見た方には筋違いのコメントと思われるかもしれません。悪しからず。】

 

在宅医療の医師が、死を迎えようとするお父さんと視覚障害の娘さんの家を訪問していた。

我が家と世代的に同じくらいの親子だった。

お母さんを早くに亡くし、お父さんは障害のある娘を庇うように生きてきたが、病に倒れた。入院を勧められたが、娘のことを考えて家で臥していた。医師は特に心配して、頻繁に訪れているようだった。

 

「いつ亡くなってもおかしくない状態ですよ」医師は帰りがけにそう娘さんに話す。娘さんは、明るく「はい、はい」と返事をする。まるで「もうすぐ元気になりますよ」と言われたときに返すような、かげりのない明るい声だった。

その医師は、娘さんはお父さんが死にゆくことを分かっていないのではないかと心配していた。

番組の意図は他のところにあったのかもしれないけれど、私の思考はそこで停止した。

そして画面に向かって、お医者様、娘さんは分かっていますよ…と言いたくなった。

 

娘さんが視覚的にお父さんを観察できないから、お父さんの死が受け入れられないと医師が考えているのなら、それは違うと思う。実際、彼女はお父さんの脚をマッサージして、触覚的にお父さんが衰えていることを感じていたし、食欲が激減していることも分かっている。

 

私が思うに、彼女は、沢山の人が心配してくれるのを気遣って、心配をかけないように “陽気に” 振舞っているのだ。視線などで感情を伝えられない彼女にとって唯一の表現手段は声であり、明るくしゃべることで「そんなに心配しないで」「私は大丈夫」のメッセージを、周りの人たちに発しているのではないかと思う。彼女だって布団の中で涙を流し、不安で眠れない夜もあったはずだ。

 

誰でも、親が自分より(順当にいけば)先にあの世に行くことは分かっている。

ただ、それを “実感を伴って” 理解することができないだけだ。

 

彼女に限らず、自分や自分の身内だけは死なない気もしたりする。

どんなに状態が悪くなっても、今が底で、また這い上がってきてくれて昔の生活に戻れるようにも思えてくるのだ。私も父が最後に入院し2、3週間が経つまでそう信じていた。そして、その気持ちが介護を後押ししてくれていたのかもしれない。

 

人が容易に死を受け入れないのは、生存のために神様が仕組んだ本能と考えてもいいのではないか…とさえ思える。早々に死を受け入れられたら介護放棄が続出するかもしれないからだ。

(この段落は、私独特の逆説ユーモアとして読んでください。)

 

死を理解することも、受け入れることも、誰かに言われてするものではないし、短時間にできるものでもない。もしかしたら、生命の誕生を理解したときよりも長い時間をかけて、自分の中からじんわりわいてくるものではないかと思う。

 

娯楽番組だったら中座するときは録画ボタンを必ず押すのだけれど、あのときはそのアクションをとらなかった。あのお父さんと娘さんは、あの後どうされたのだろう?

見た方がいらっしゃいましたら、ご一報を。