Last Song Latest

「ラスト・ソング」のその後

スイス流親孝行🇨🇭

20年ほど前、スイス人の友人がいて、泊まりがけで遊びに行ったことがある。

 

年齢を聞いたことはなかったが、アラフォーくらいだったか。お母さんは他界されており、彼女はボーイフレンドと2人でチューリッヒのアパートに住んでいた。

アパートと言っても日本の高級マンションレベルで、私が泊まる余裕も十分にあった。

 

彼女は夕方になると、決まった時間にお父さんに電話をかけるのを”マイルール” としていた。まだ携帯電話のなかった時代、同じ時間に固定電話の前に陣取るには、努力を要することもあっただろう。

お父さんは老人施設に入っているようだった。電話の声も元気そうで、病気があるわけでもなさそうだった。

 

なんで一緒に住まないのだろう?…と私は不思議でたまらなかった。

アパートの床面積は日本の平均的な一軒家より広い。同居がダメでも、元気なのなら近くに住めばいいではないか? あれこれ詮索するほどの英語力がなかったのが幸いだった。というより、私の考え方の方がこちらの基準からして「?」になるかな…と薄々感じたのもある。

 

私はそれほど国際派ではなく、世界中に友人がいるわけではない。

でも、各種メディアを通して感じるのは、外国では親子関係があっさりしているということだ。高校を卒業すると家を出る。親も、病気になったり体が不自由になったからといって、子に頼ることもない “らしい”。そもそも西洋には同居という発想があるのだろうか? ダウントンアビーだって、あんなに部屋がたくさんあるのにバイオレット婆さんは別居していた。

 

私も含め、日本人は、老人が一人でいるとまず、「家族は何してるの?」と思う。

子供がたくさんいるのに親が一人暮らしだと、「一人くらい面倒を見る人はいないのだろうか」、ときに「一緒に住みたいと思われないのか」とさえ思う。きょうだいがいる場合は、独身者が親と同居することが多い。

 

親の病気が深刻になると、家をいったん離れた、経済的に自立していた子供でも仕事を捨てて、実家に戻って介護をすることがある。私の友人たちにも、離れた実家の親の心配をしている人たちが実にたくさんいる。独身の子供の場合、たとえ社会的に地位があったとしても、その地位を捨てて親の面倒を見ることもある。親も、子供が小さい時は子の出世を願ったはずなのに、自分の体がきかなくなってくると、喜んで子の差し伸べた手にすがる。

 

某翻訳スクールの先生は、一時的にご自身の家族のもとを離れ、認知症になったお母様の住むマンションに住み込んでお世話をしながら、マンションの一室を翻訳スクールの分校として生徒を招いていた。近隣の方達は、一人暮らしの老人だと思っていたのに、俄かに若者の出入りが激しくなり、不審に思われたのではないだろうか。第一、翻訳の先生だからよかったが、オーケストラの指揮者だったらどうするのだ⁉︎

 

面倒を見ることができる子供がいるのに親が施設に入る場合、周囲が「なんで子供が見ないのか?」と思う風潮もある。世間体を気にして預けられない人もいるだろう。

 

これは「育ててもらった恩」という考え方が日本人の根底にあるからではないか?

考え方自体は悪いことではないし、私自身、父と寄り添って生活した日々はかけがえのないものだったと感じている。介護のために仕事を辞めた人たちも、皆が皆、義務感に駆られたわけでなく、進んでそうした人が多い。けれども、介護を “美徳” とする意識は変えなければいけないと思う。

 

意識を浸透させることが第一だけれど、高齢者用住居を充実させて、たとえ病気がなくても安全に生活できる場があるといい。要支援/介護の程度に関係なく受け入れる施設が十分にあってほしい。住処が確保されれば、多少年金が少なくともどうにかならないだろうか。人手が必要になりそうに思えるが、分散していた人たちを一箇所に集めるだけだ。ヘルパーさんは効率的に働くことができるし、今までフリーランスだったヘルパーさんたちも、施設に正職員として雇ってもらうことができる。ショートステイ施設やデイケアの送迎など、不要になるところから融通してもらってもいい。

 

介護を放棄しましょう…と言っているわけではない。

スイスの友人が毎日電話をしていたように、いつどこにいても心の「介護」は一生続く。