晩年の父と私しか知らない人たちは、皆さん、仲の良い親子と思ってくださっていたようだ。
ショートステイの面談に来られたカエデスクエアのナツヤマさんなども、父が飾っていた旅行の写真を見て「家族で行ったんでしょ?」と訊かれたが、父は行きたいところには一人で行っていた。
ランチ・パルの一人も、「ラスト・ソング」に書いた通り、インフルエンザ騒動のときに出したメールに(あの状況下で(*_*))「割り切りなさいよ」などという返事を送ってくれた。”濃密な” 親子関係と思われていたからかもしれないが、我が家の関係は、家のそばを流れていたと言われる「春の小川♪」のようなものだった。
本の冒頭にも書いたけれど、母が病むまで、もしかしたら母が亡くなってしばらくの間、父と私は互いにストレンジャーだった。母の存命中「この父を残して、母に逝かれたらどうしよう」と真剣に悩んだくらいだ。
確かに家庭不和というほどのものはなかったし、大きな問題もなかった。でも我が家は天使の家族ではない。揉め事もあれば、不快な出来事も少なからずあった。
それでも父と最期の日々を平和に暮らせたのは、
私に言わせれば「私の人徳」であり、
父に言わせれば「オレがデキた人間だから」であり、
天国の母に言わせれば「私が見守ってあげていたからよ」といったところか。
でも実は、私を一番モチベートしてくれたのは、母の介護に必死になって取り組んでいた父の背中だった。
若い頃は仕事人間。中年になってからは趣味に没頭し、家庭的とは程遠い父だった。家族旅行だって、数えようと思えば数えられるくらいしかしていない。家族で食事…と言っても近所のリーズナブルな店ばかり(自分は社用で高級店に行っているのに)。
だけど、母が病んでからの父は、人間が入れ替わったかのようだった。
お茶も入れたことのない父が、料理教室に行って腕を磨き、美味しい食事を作ってくれた。父が包丁を持っている姿は衝撃的ですらあったが、案外上手だった。雑誌が取材に来たこともあった。
腰椎骨折し、ポータブルトイレでの排泄を余儀なくされた母の、トイレの清掃も父が全て引き受けた。在宅医療、その他介護サービス、全て父が管理してくれた。慣れぬこと続きで大変だっただろうと思う。
「パパはアテにならない」と散々言っていた母だったが、そんなことはすっかり忘れてしまったかのように、「パパにやってもらおう」というのが口癖になった。
そんな父の姿が残像になっていたから、私も、父に同じことをできたのだと思う。
家族の絆というものは、旅行や外食をいかにたくさんしたかではない。普段はやりたいことをやっていても、いざというとき助け合うのが家族なのだということを学んだ。
熟年離婚が大流行だ。私の周りでも珍しくない。
「あれだけ尽くしてやったから、もうたくさん」と豪語している人とランチで同席したこともある。美味しいランチが口から噴出しそうになった。
まあね、独身の私に夫婦の機微は分からないけれど、せっかく出会い、結ばれたのにね。
「尽くす」なんて昭和演歌の歌詞みたいな言葉使ってないで、もうちょっとだけ連れ添ってみれば、「ダーリンの恩返し」があったかもしれないのに。
もったいない…。