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「ラスト・ソング」のその後

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桂歌丸の落語を国立演芸場で初めて聴いたのはかれこれ20年ちかく前になるだろうか。

 

ある人からチケットをもらい受けて行った。まだ空席はたくさんあった。

 

話芸とはこういうものかと思った。

歌丸は喋っているだけである。

なのに、映画のように情景が浮かんでくる。

しかも道ゆく人は皆、和服を着ている。私が見たこともない、熊さんはっつぁんの時代である。

歌丸と私の間の空間に3Dの時代劇が繰り広げられているのだ。

 

どの噺家でもそういうわけにはいかない。喋る間合いや呼吸の為せる技なのだろう。

 

そんな歌丸の芸が人々に知れ渡り、毎回満席になり、チケットが容易に取れなくなるまで時間はかからなかった。

 

かねがね落語に関心を持っていた父も、国立演芸場に足繁く通うようになった。

新春演芸と恒例の8月の歌丸の怪談噺には、いつしか二人で行くようになった(これらは必ず満席になるので、ネットでなければ買えないのだ)。

 

歌丸の怪談には4回くらい、二人で行っただろうか。毎回「大入袋」が出ていたと言う。

しかし、いつも…というわけではないけれど、父と私どちらかの隣の席は空席だった。

 

おそらく当日になって具合が悪くなったり、都合が悪くなる人がいるのだろう。

だけど、ざっと見渡して、そういうドタキャンと思われる空席は数個しかない。それが必ずのように我が家の席に隣接してあるのはちょっと妙でもあった。

 

私は、ひょっとしたらこの席に母が座っているんじゃないか?…という気がしてきた。

 

落語に行くようになったのは母が亡くなってからのことだし、母が生きている間も、三人で劇場に行った記憶は数えるくらいしかない。それも私がせいぜい二十代の頃までだ。

だけど、なぜか、そこに母がいるような気が私にはした。

 

父が亡くなった後、友人が行けなくなったからと、ランチ・コンサートの券を送ってくれたことがあった。N響の有名コンサートマスターがMCと演奏をする楽しいクラシック・コンサートだった。

どっちかと言うと、中高年のマダム(私もそうだけど)向け。父が生きていたら「オレが行くよ」と言いそうなものだった。

 

友人は一人で行くつもりだったようで、送ってくれたのは一枚だったけれど、何故か隣の席は空いていた。他はほぼ満席である。

私は、この空席に父が座っているのではないかという気がしてきた。

 

満席のときでも、何故か私の周りには空席が多い。

飛行機でも、数回、そんなことがあった(これほどありがたいことはない)。

そこに父が座っていると思うのは、想像のしすぎだろうか? 父ではなくて祖父なのだろうか?

 

昨年ジャズダンスの公演を観に行ったときも、満員御礼ながら、私の前の「招待席」は空いていた。私はそこに、出演者の最愛のお母様が座っているような気がしてならなかった。

 

空席は偶然もたらされるものだ。でも、あの世にいる、この世の人の愛おしい人たちが(コンピュータ・システムに忍び込んで)密かに予約を入れているのかもしれない。

 

新型コロナウイルスのおかげで、コンサートなどのイベントでは座席を空けるようになった。

私も先日、バレエの公演を観に行ったが、席は一つおきだった。

あの席には、あの世の人たちが、ひょっとしたら座っていたりするのだろうか?

心霊写真(昭和にはよくあった)が撮れたとすると、満席になっているのだろうか!?

 

あの世でも、話題になっていたりするのだろうか?

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