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「ラスト・ソング」のその後

ほけんじょって、何?

東京オリンピック(1964年)後に生まれ、育った人たちに「保健所って何すると思う?」と尋ねると、たいてい「犬を殺すの?」という答えが返ってくる。

ブー!
保健所では犬は殺しません。

迷い犬を保護するためのケージは確かにあるが、飼い主を探し、見つけられなかった場合は清掃事務所に連絡をする(今ではNPOあたりに引き取ってもらっているかもしれない)までが保健所の仕事だ。
ちなみに、清掃事務所などに引き取られるまでの間、保護したワンちゃんの餌代は、担当のポケットマネーから出ていた。

「消毒もするの?」と言ったのはウチの母だっただろうか。
おそらく戦中・戦後のDDT消毒が頭にあったのだろう。
害虫駆除も、ネズミの駆除も、実際に行うのは業者さん、または他所の職員だ。

コロナ前は、保健所を医療のコンビニまたはサービスセンターと思われていたフシもあって、プラスチックトレイに人糞を盛ってきて、「寄生虫がいるみたいなので調べてくれ」と突き出されたこともあった。
「買って2週間経った牛乳があるのですが、飲めますか?」と持ち込まれたこともあった。

どちらも一応、調べてさしあげたが、本来、前者は病院、後者は消費者センターの仕事である。
現在は保健所に検査室が不在の場合が多いので、持ち込んでも断られる…はずです。

さて、ここから、私が知っている限りの保健所の物語です。
長くなると思うので、お急ぎの方はこのへんで。ごきげんよう

保健所のそもそもの目的は「感染症対策」にほかならない。
まだ上下水道も整っておらず、食中毒などの感染症で命を失う子供も多く、結核も蔓延していた頃、これらから住民の健康を守るために作られた。

結核を見つけるために住民に検診が行われ、子供が無事に生まれ育つように母子保健事業が行われ、人が集まる場所や水(井戸水も多かった)の衛生のために環境衛生事業が立ち上がり、食中毒を減らすために食品衛生指導や検査が行われた。イヌの保護も、お犬様の福祉のためにやっているのではなく、狂犬病が流行らないようにやっているのだ(なので、ネコは引き取りません)。

もともとキレイ好きの国民性も手伝って、東京オリンピックが終わる頃には清潔な日本になり、私が就職する頃には「感染症?今時?」みたいな時代になった。
実際、私と病原性微生物との出会いは、その気になれば数えられるくらいだ。
結核は病院からの報告はあったが、関係者(最近よく言う「濃厚接触者」に近い)から検出されたことはなかったし、寄生虫といってもギョウチュウさんの卵しか、私は見たことがない。

当時、懸念されていた感染症は性病やHIVだった。これらの検査は非常にひっそりと行われていたし、検体数も少なかった。

一番盛り上がったイベントは、病原性大腸菌O157だった。地下水で栽培したカイワレ大根が原因だったことから、地下水の検査が殺到した。が、実際にO157が検出されることはなく、やがて井戸のほうが消滅することになった。

キレイな日本になってくると、事業は他の方向にシフトする。
結核のための検診から、「ついでにオシッコも検査しましょうか」ということになり、やがて生活習慣病の予防のための検査がメインとなった。

保健事業は母子に加えて、高齢者や障害者も扱うようになり、口腔衛生も重大性を帯びた。

食品衛生検査は微生物の他、食品添加物の検査も行うようになり、そのための検査機器を用いてできる家庭用品、シックハウスなどの検査も上乗せされた。

区によっては、がん検診まで請け負っているという話も聞いた。私たちの保健所でも乳幼児の神経芽細胞腫の検査をしていた。

高度成長とバブルでたっぷりと予算が付いて、保健所の施設は整い、専門職の職員もどんどん投入された。
感染症対策も勿論やっていたが、住民の関心はテレビの健康番組やワイドショーで特集された、「血液サラサラ」を調べる検査だったり、「砂場の回虫」検査だったり、フィットネスクラブのレジオネラ菌だったり、本当に必要なものとは違っていた。

ちなみに、「砂場の回虫」とは、ネコが糞を砂場にするため、回虫卵で砂場が汚染されている…という特集がテレビ放映されたことに始まった。そこで、「近くの公園の砂場は大丈夫?」という問い合わせが相次ぎ、どの区でも砂場の砂を集めてコツコツ回虫検査をし始めた。特別予算が組まれ、ドサクサ紛れで高~い顕微鏡を購入した保健所も少なくなかった。
(回虫卵が天から降ってくることはない。ネコの糞さえ除去すれば大丈夫なのだ。)

今思うと、これらは平和でお金が余っていた時代だったからできたことだ。

とにかく当時は、保健所本来の「感染症対策」の仕事が減って、ふんだんな予算を住民に還元するべく模索していたのだ。
ひたすら「住民サービス」を遂行しようと、住民の顔色をうかがうかのように事業を増やした。

結果、有意義な事業も多く立ち上げられたし、多くの住民を幸せにできたので、決して無駄ではないのだが、保健所を身近に感じてもらうことがそれほど重要だったのか、疑問も残る。

さて、こうしているうちにバブルがはじけ、税金収入も激減し、保健所のあり方が問われるようになった。

昭和末期まで、保健所は各区に2カ所以上はあった。
東京府時代の行政区(例えば、京橋区日本橋区)にしたがって建てられたものもあったし、交通網が発達していない区では多くの保健所や相談所が置かれていた。
そしてその各所に、所長や予防課長として、ときにその下の係長として公衆衛生医が置かれることになっていたが、23区だけでも100人以上の医師が必要で、欠員も珍しくなかった。

医師の給与は高いので、なるべくなら医師ではなく事務職を置きたい。
そうするためにも、「保健所」は「保健センター」「相談所」と名称が変えられ、組織替えされ、いわゆる衛生業務は一所にまとめられ、検査業務は民間委託への道をたどった。

こうして平成時代に、保健所は大きく変容した。
それまで部分的だった監視業務も全て保健所に任され、まさに保健所はコンビニ状態になってしまっていた。

私が体験した保健所の歴史はここまで。
この後、SARSや新型インフルの流行を経験したはずだが、それでも今回のようなパンデミックは予想していなかったらしい。

予想した人、危機を唱えた人はいたのかもしれないが、その声が届くこともなかったのだろう。もし届いていれば、保健所を医療のコンビニではなく、"保健衛生の交番" として整えていたはずだ。

今回のパンデミックで、私は今更ながら、保健所の仕事って何だったのだろう?…と考えた。
そんな私の手引きをしてくれたのが、この本だった。

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現役バリバリの公衆衛生医が経験したままを綴ったこの本は「マイ・ベストセラー」である。

保健所では、割り当てられた仕事をこなし、予算や人員を削減されないように成果を出すことに終始し、何故こういう仕事をやっているのか、これからどうあるべきかなど考えたことはなかった。感染症の陰がうすれかけていた時代、住民に納得してもらうべく、「みなさまの保健所」をスローガンにしてまっしぐらだったように思う。

確かにそれも大切なことだけど、垣根を低くしたことが、パンデミックで足を引っ張ることにもなったのではないだろうか。

本にもあったが、ジャンクな電話が多いだろうことは私にも容易に想像できた。
保健所を医療のコンビニやサービスセンターと位置づけている住民は、「Goo顔負けの質問」を次々としてくる。さらに、「税金を払っているから」という大義名分のもとに、理不尽な不満・苦情を遠慮なくぶつけてくる。住民からの電話は途中で切るわけにもいかない。

マスコミの報道も「ん?」と思うことが多かった。
「あんたら、保健所をなんだと思ってまんねん!?」と番組あてにメールを送ろうかと思ったことも一回ではない。

この本にも書いてあるが、病院やホテル、自宅療養の仕分けをするのも、本来の保健所の仕事ではないのだ。

「保健所の逼迫」が報道されたが、常日頃から本来の「感染症予防」を中心に考えていれば、これほど逼迫しなかったのではないだろうか。

保健所の仕事は「何でも屋」ではなく、感染症対策であることを住民に周知させておけば、的外れの電話の嵐やマスコミの逆風に遭うこともなかったのではないだろうか。保健所の人事やITを、感染症を想定して構築しておけば、逼迫を少しは回避できたのではないだろうか。

真の「住民サービス」とは、砂場の回虫や賞味期限の切れた牛乳の検査をホイホイとしてあげることではなく、有事にも効率よく住民のニーズに応えることができることではないだろうか。それには自分たちがいっぱいいっぱいになっていてはいけない。万全の体制で住民を守る姿勢を見せることではないのか。

そして、今後はあらゆる想定のもと、一般の人に対して衛生教育を徹底させることも大切なのではないだろうか。初期の混乱は一般の日本人(だけではないが)が、ウイルスとは何か、感染はどうやって起こるかについて知らないために起きた。

以上が、検査室から見た保健所の歴史と概要です。

他の専門職、事務職の方々からはまた違った風景が見えていた可能性があることも、付け加えておきます。

オチもないのに、最後までお読みいただき、ありがとうございます🙇‍♀️
皆様、今後も保健所の業務にご協力をお願いします。