父が80歳を超えた頃だっただろうか、「海が見たい」と言って、江ノ島行きロマンスカーの切符を2枚買って来たことがあった。
覚えている限り、これが最初で最後の、父と私の二人旅だった。
海のシーズンのちょっと前の平日だった。心ゆくまで海を見て🌊、水族館に行き🐠、お昼を食べて🍚、アイスクリームに舌鼓を打って🍦帰って来た。日帰りだった。
父は「山男(やまおとこ)」ではあったけれど特に海が好き…と言っていた覚えはない。
そんな父が「海が見たい」と言い出したのは、ひょっとして子供のときに親しんだ海を思い出したからかもしれない。
千葉の館山(だったっけ?)に「別荘🏠」があって、毎年そこで夏を越したという思い出話を何度か聞かされた。海辺で花火をしたとか、スイカ割りをした…というようなことは言わず、とにかく海遊びが楽しかったらしい。
昭和10年〜15年くらいなので、家庭用の花火もまだなかっただろうし、海の家のアイスクリームも焼きそばも、ビニール製のビーチボールも浮き輪も、ビーチサンダルさえもまだなかったはず。とにかく皆、褌一つで海辺でバシャバシャやっているだけだったろう。
そのおかげか、父は海でもプールでもいくらでも泳いでいられる🐬
祖母も泳ぎが得意だったと聞いたことがある。私が生まれたとき祖母は59歳で、当時の女性のたしなみからして水着になることはなかったはずなのに、なぜか私は祖母が泳いでいる姿を覚えている。泳法は日本泳法「のし泳ぎ」だ。
実際に一度くらい目撃したことがあったのか、何度も聞かされたので見たような気になっているのか、よく似ている叔母の水着姿と記憶がすり替わってしまっているのかは分からない。
海で泳いだ経験を共有しているからか、単に昭和時代はレジャーの選択肢が少なかったせいなのか、我が一族は夏になると水辺で集うことが多かったように思う。山の方に旅行に行っても必ずプールに入ったし、東中野にある豪華プール(+バイキング)にはよく連れて行ってもらった。祖母も70歳を過ぎていても、ずうっとプールサイドに座っていた。
もし「別荘」がまだあるなら、父が亡くなる前に明らかにしておかなければならないと問いただしたことがあった。
相続税…そして何より「空き家問題」😱
しかしそれは、石原裕次郎のハワイの「別荘」とは全くの別物で😄、商売上取引のあった漁師の家を借りていた…らしい。単に「民泊」という言葉がなかっただけのこと。
ホッ😮💨
「さぁみんな、明日から別荘に行くよ!」
「わーい、別荘だ〜❗️別荘だ〜‼️」
賑やかに盛り上がる、おかっぱ頭や坊主頭が目に浮かぶ。