このブログも、今回で50回 (^-^)v
長々しい文章を読んでくださっている皆様、ありがとうございます。
文章を書くのが得意なんですね…と言われそうだけど、実は、私は文章を書くのが大の苦手だった。
国語の時間に原稿用紙を配られると、帰ろうかと本気で思った。
決められた題材の文章を制限時間内に書き上げなければならない。あれほど嫌な授業はなかった。
しかし書き上げることができない場合、「お持ち帰り」ができるのは素敵だった。
題名だけ書いた原稿用紙をさりげなく広げておくと、下書きができていて、それを清書して提出すると、「(たいへん)よくできました」のハンコがもらえた。母というゴーストライターのおかげだ。ただし小学生までの話。
受験に際して「小論文」は禁忌だった。小論文、歴史、数Ⅲが受験科目に含まれない学部、それが薬学部だった。
特許翻訳に文才は一切関係ないので、これで10年ほど稼がせてもらった。が、特許以外の翻訳はまったく駄目。特許翻訳だって、「年寄りクサい文章だ」と “年寄りの” 先生に言われたときは心が折れた。
そんな私が何故、これほどまで文章を書くようになったのは、東日本大震災のせいでもある。
小学生の時、仲の良い友達がいた。本ブログでは実名の使用は避けてきたけれど、今回は例外。「ユリちゃん」という名前だった。
ユリちゃんのお母様は洋菓子店で働いていた。今では洋菓子激戦区の我が街の先駆け的存在の店だった。今はないが、その店は駅前にあって、美味しいお菓子を作って売っていた。
ユリちゃんとは、小学校4~6年の間、仲良しだったが中学から道が分かれてしまった。一度別れた道はどんどん広がるばかり。20歳くらいまで往復した手紙も、やがて年賀状だけの付き合いになり、30代で年賀状も途切れた。最後に彼女から来た年賀状の住所は、宮城県石巻市だった。
東日本大震災後、私は彼女を探した。ネットを使って避難所にいる人を探し、新聞で死亡者の名前を恐る恐る探した。でも見つからなかった。見つからないからと言って生きているとは限らない。行方不明者はどこにも載らない。またはすでに引っ越して、日本のどこかに生きているかもしれない。それならそれでいいけれど、会いたいと思った。
断捨離が素敵なことのように言われるけれど、人の断捨離はやってはいけないと私は思う。折角出会えた人との縁を “自分の都合で” 断ってしまったらバチが当たる。
(郵便局の回し者ではないけれど、年賀状くらいは出してください。63円で縁が続くなんて、安いものです。)
SNSもやってみたけれど、彼女の名前は見つからなかった。
私が何かで有名になればいいのだけれど、そんな見込みはなかった。
考えた私が行き着いた答えはなんと、「小説を書こう」ということだった。
小説を書いて売れれば、彼女が会いに来てくれるのではないか?と。
文章嫌いが何を言う⁉︎
…だけど、好きなテーマを画面上に打ち込むのはそれほど苦ではないことに、気が付いていた。
小説は読まれなければ意味がない。読まれる文章とはどういうものか、研究した。
できた小説は当然、上手とは言えない。でも原稿用紙恐怖症だった私が長いものを書けたというだけで自画自賛☺︎
最後に書いた話は、彼女と私が、たまたま参加したイギリスツアーで再会するというストーリーだ。彼女が読めば必ず、私が作者であることが気づくようなエピソードを盛り込んだ。「テディベアと午後のお茶」と名付けたその作品は、今まで書いたものの中でも一番気に入っている。
しかし大きな誤算があった。
作文が苦手だった私。他の人も大方嫌いなのだろうと思っていた。
世の中には、書くことが大好きで、小説を書く人がこれほどたくさんいるとは思ってもみなかったのだ。文章を書く(人になる)ための(大学の)専攻があると知ったときは、本当にびっくりした。そんなにまでして文章に愛情を注いできた人の中に、40代になって書くことを始めた私が入り込める余地などあるはずもない。
だけど夢中になって文章を書いているうちに、私は書くことの魅力に取り憑かれていた。
父を看取った後、本を書こうという気持ちは、ごく自然に起こった。ストーリーなど考える必要はなく、起こったことをそのまま書くだけだ。エッセイの類は10代の頃よく読んだので、小説よりずっと容易に書けたし、翻訳で身に付けた文章スキルやパソコンスキルは大いに役立った。
ついでながら、母の、ちょっと過保護な「ゴーストライター教育」も無駄ではなかったと思う。文章を書くことができない人は、書き写すことから始めるのも一方法。ネット上の「作文」や「読書感想文」を “書き” 写すのは決して悪いことではないと私は思う。
こうして「ラスト・ソング」を出させていただき、未だ飽き足らずこのブログを書いている。
本もブログも、ユリちゃんに読んでもらうことは想定していない。だからと言って、ユリちゃんに会うことを諦めたわけではない。
いつか、私が書いたものを読んでユリちゃんが名乗り出てくれる日まで、何らかの形で書き続けていきたいと思っている。
おかげで夢もできた。ミステリを書く夢だ。ミステリは私にはハードルが高い。でも、一生かけてゆっくり叶えられればいい。薬剤師だったと言われる、アガサ・クリスティーのように。
ということで、もし、お近くに「ユリ」という名前の50代の女性がいたら、お母様が渋谷区の洋菓子店で働いていたかどうか、訊いてみてください。もし「YES」と言われたら、是非このブログを教えてあげてください m(_ _)m
長くなりました。今年も、まだ書きますので、よろしくお願いします。