父は、(会社以外)どこにでもトランジスタラジオを持って行っていた。
旅行に行くとき、朝のウォーキングに行くとき、お風呂に入るとき、入院したとき。
晩年、目が悪くなってからは特に、ラジオを愛聴していた。
土曜日の永六輔の番組がお気に入りだった。今はあの世で放送されている・・・はず。
私の幼いころは重ーい小型ラジオを持って歩いていたが、やがて軽量小型化し、値段も安くなり、いろいろ試していた。おそらく父が買ったトランジスタラジオの1つを私がもらい受けたのではないかと思う。
いつしか、私もそのラジオを持って入浴するようになっていた。
十代の私の入浴時間は真夜中の11時半より早いことはなかったと思う。
シンと静まり返った中でラジオのスイッチを入れて、のんびり湯船に浸かった。
当時のラジオは、つまみが2つ。音量つまみとチューニングつまみ。今のラジオのように、自動チューニングではなかった。
お風呂に入ってチューニングつまみをいじっていると、局と局との間にも、周波数の合うチャンネルがあった。
モスクワ放送という放送局だった。夜の数時間、日本向けに放送されていた。数回聴いたと思う。日本語放送のない日には、ロシア語放送も聞かれた。重厚で歯切れのよい発音は聞いていて気持ちがよかった。漠然と、ロシアに憧れた。
その後、ソ連に行く機会があった。年末年始をまたいで、モスクワからレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)を旅行する。バレエやオペラの鑑賞が付き、リハーサルやレッスンの見学もできるツアーは、私と同年代の女子が中心となって50人近くの参加者がいた。
厳冬のソ連だったけれど、室内はどこも暖かく、出会う人たちもあたたかかった。
ある日、友人が部屋を出た後、忘れ物に気付き、部屋に戻ってみると、掃除のおばちゃんが、私たちが放置した「あめちゃん」を舐めながら鼻歌を歌いながら掃除をしていたよ…と、愉快そうに報告してくれた。以来、私たちは、ツアーに出かけるときは「あめちゃん」をいくつかテーブルの上において出かけるようにした。出先でロシア人とふれあう機会があると「あめちゃん」をプレゼントした。
ただ、当時、超酸っぱいキャンデーが流行っており、私が大量に持っていたのも「スーパーレモン・キャンデー」。お口に合ったかどうかは不明だ(日本の飴は刺激的ィ!・・・と思われたかも)。
日によっては日中マイナス40度のこともあり、決してモノが潤沢とは言えない共産圏の国。いろいろ不自由もあろうに、人々は明るく、たくましく生きているように見えた。
旅行は、とても楽しかった。食事も、とってもおいしかった。
欧米の文化は日々目にしていたが、建物のデザイン、インテリア、食器や小物の色使い・・・、何もかもが新鮮で魅力的だった。紅茶の甘ささえ斬新だった。クマの毛皮のコートを買って帰ろうかと真剣に悩んだ(やめてよかった)。
日本人にそっくりなロシア人(おそらく中央アジア出身)も少数ながら見かけたし、お正月には日本と同じ干支の動物があちこちに飾られていて、親近感も感じられた。
同じツアーに参加していたエミちゃんは、帰国後会社を辞めてロシア語の学校に行き、ロシア語の通訳になったと聞いた。エミちゃんのお友達は、ロシア人男性と結婚したと聞いた。
違うツアーの人には、ソ連で買った毛皮の帽子を、帰国後、毎年大切に被っている人もいると言う。
みんなが何かの形で「ロシアかぶれ」になった。
私も、テレビとラジオでロシア語の勉強を始め、テレビに出演したこともあった。
ロシア語学校に通う友達に誘われて、ソ連船に遊びに行ったこともあった。富裕層のクルーズ船のようで(でも豪華ではなかった)、晴海に数日停泊して観光ししているようだった。みんな気のいい人たちで、おいしいシャンパンを浴びるように飲ませていただいた。
挨拶くらいしかロシア語の分からない私だったが、歌ったり踊ったり楽しい時を過ごさせてもらった。
私が旅行から帰った直後、日本では昭和が平成となり、ソ連はペレストロイカが始まった。
ロシア語の勉強は頓挫したが、ロシアやソ連について書かれたノンフィクションの本を読みあさった。
ロシアとなって、マクドナルドやブランド店が建ち並ぶモスクワをもう一度訪れたいと思った。
じっくり時間をかけてエルミタージュ美術館を回りたい、地下鉄に乗りたい、モノが豊富になった(であろう)デパートで買い物もしてみたかった。
「行くなら、今でしょ」と思ったのが2年前。
モスクワとサンクトペテルブルグを訪れるツアーに申し込んだ。
前回が冬だったから、今度は夏に行こう…と思ったのがいけなかった。
夏が訪れる前に、新型コロナウイルスの流行が訪れてしまった。
伝播が遅れたロシアだったが、5月ごろには大流行となり渡航禁止。ツアーも中止となった。
ウイルスが収まったら…と思っていたところ、戦争が始まってしまった💧
今回の旅行に備えて買ったガイドブックと、ソ連時代のガイドブック。
2冊とも、ウクライナにかなりの紙面が割かれている。
毎日ニュースで報じられる街の写真もたくさん載っている。歴史的な建物も多い。
美しい町並みは全て破壊されてしまったのだろうか。
次に発行されるガイドブックはどのようなものになるのだろう。
「ソ連は嫌な国だけど、ロシア人はいい人たちだよ」と、昭和40年代に仕事でソビエトを訪れた父が、旅に出る私に言った。その通りだった。
あの頃も空港などにはたくさんの軍人が歩いていたが、よく見ると皆、イケメンの若い男性。手を振るとニコニコと振り返してくれた(こっちも若い女子だったし)。
一人一人は日本人と変わらない善良で友好的な人なのに、その人たちが集まって国を作ると牙をむく!?
憎むべきはほんの一部のロシア人なのだ。
国を憎んで人を憎まず。
"多くの" ロシア人は、ウクライナ人同様、被害者でもあるはず。
民族も原語も同じ。ウクライナに親戚や友人知人のいる者もいるだろう。