父の本棚からこんな本が出てきて、大爆笑🤣
自分で買ったのかな⁉️
いや、私が買って「プレゼント」したんだっけ❓
…いやいや、新聞の書評の切り抜きが入っていたから、やっぱり自分で買ったんだろう📚
だけどアンダーラインが一本も引いてなかったので、読んではないらしい。
この本の発行は2000年📗
前ブログのブックオフが原宿に店舗を構えた頃。
断捨離・コンマリブームの直前くらいだろうか。
ちなみに父は「断捨離」という言葉が大嫌いだった。
父・母・祖父母…、モノのない時代を経験した人たちは、モノを徹底的に大事にした(捨てなかった)。
祖母が亡くなった後、プラスチックのおかずパックが大量に出てきた。
訪れてくれる娘たちにおかずやお菓子などを分けるため、大切に取っておいた「隠し財産」らしかった。
「財産」と言っても金目の物は一つもなく、ガラスビンや荷造り紐、包装紙、結婚式の引出物など…だった🥴
昭和家屋には、押入れ、そしてその上に天袋というものがあり、大量のモノを受け入れてくれた。
使われなくなったモノは大切に仕舞い込まれ、思い出したように取り出されては「こんなものがあった❣️」と、人々を一瞬笑顔にした。
一種のタイムカプセルみたいな存在カモ🦆
新しいモノが次々入手できるようになると、奥深く仕舞われたものは取り出されることもなくなった。
そうやって生きてきた人たちの死後、大量の「隠し財産」の処理に困る子孫が続出した…のが、西暦2000年頃だったのではないだろうか?
住居も西洋化し、押入れのない住居にすっきり住むことがトレンドとなった🧹
かつてはたくさんモノを持っているのが富の象徴だったが、今ではモノが溢れている生活のほうがビンボー臭く思われる😅
「お古」で育った親世代は、自分の子どもには新しいモノを着せたがった。
いっぽう、新しい服を着せてもらって成長した私は、たまにもらう従姉妹のお下がりが結構気に入っていた。
母が買ってくるものと目先が変わっていて、いつもと違う自分になれる気がしたのだ。
今どきの若者も「セコハン」を上手に楽しんでいる。
下北沢で石を投げれば古着屋に当たる(誇張ではないです)🪨
持ち主が変われば、モノも再び輝くことができる。
ちなみに私も「断捨離」という言葉は好きではない。
多少気に入らなくとも…もらったものでも、間違えて入手したものでも…、フライヤー1枚でさえも、捨てられるために作られたモノなどひとつもないのだ。
人間一人ひとりがかけがえのない存在であるのと同じ。
自分で悩み、行き着いた結論ならともかく、1000円ちょっとの本を読んだだけで断捨離しちゃうと、今度は自分が断捨離されちゃうよ、きっと🥴…と思ったりする。
‥と言うことで、冒頭画像の本はブックオフに持って行こう😉