四半世紀ほど前、私は細菌検査を担当していた。
衛生検査技師たった二人で、銀座、日本橋を中心とする地域の食品細菌検査、さらにその食品を扱う人たちの腸内細菌検査を担当していた。
細菌検査の仕事は迅速さも要求される。のんびりやっていると、その間にも細菌は増殖して増える。二人でやるにはかなりな仕事量だったが、私たちには「スーパーマン」がいた。
スーパーマンは、シルバー人材センターから派遣されて来ていた。
彼の本来の仕事は器具の洗浄だったが、高圧滅菌機を使った滅菌作業や雑用も何でも引き受けてくれていて、彼のおかげで私たちは二人であの膨大な仕事をこなせたのだと思う。
器具洗浄の仕事も、私がやってみると汚れが完全に落ちないだけではなく、破損する数も半端ではなかった。損害を最小にしつつ器具をキレイにするには、指先の器用さも必要だった。
さて、検便の検体が搬入される気配を感じると、スーパーマンは、洗浄作業の途中であっても、マントならぬ白衣を翻して検査室に飛んでくる。そして、採便管の蓋を片っ端から開けてくれるのだ。検査技師の私たちがすぐに検体を処理できるように。
採便管の蓋は例外なく、きっちりと閉められている。数十件くらいなら問題がないが、千件を超えると蓋の開け閉めだけでも時間がかかる。スーパーマンのおかげで、食品細菌検査をしながら膨大な数の検便もこなすことができた。
私はラテックスの手袋をはめていたが、スーパーマンと、もう一人の検査技師のM氏は手袋をはめることはなかった。
採便管によっては開けた瞬間、中の💩が溢れてくることもある。周りに💩がついていることもある。それでも彼らは手袋をせず、1検体毎に消毒用アルコールで指先を拭きながら作業をしていた。
M氏によると、手袋をすると汚染に対して鈍感になってしまう。素手の方が汚れに敏感で、何かがついたときにすぐに分かる…というわけである。
確かにそうだった。手袋をしていると、指先の感覚はあっても、指の節あたりに汚れがついても分からない。でもさすがに私は手袋をしないで検便を扱うのには抵抗があったので、小まめに消毒することにした。
新型コロナウイルス感染が広がってから、あちこちで店員さんの “ゴム手” 姿を目にする。
電車のつり革やエレベーターのボタンからの汚染を恐れてか、手袋をして歩いて人もいる。
ウイルスが、エボラウイルスやB型肝炎ウイルスのように、目に見えない傷から侵入するのだったら手袋をはめる意味はあるが、コロナウイルスはそういうところから感染することはない。ウイルスにいくら汚染されても、その手を口や鼻の近くに持っていかなければ感染することはないのだ。それより手袋をはめた手で顔や髪の毛に触れる方が危ない。手袋をしていると、あちこち触ってしまいがちだ。さらにその手で自分の身体や持ち物にも触ってしまう。
また、手袋を脱ぐときにウイルスが手につくこともある。手袋をはめていたから大丈夫と思って手洗いがぞんざいになるのが一番危険だ。
M氏のように、素手で行動し、余計なところに触れないように気をつけて、小まめに手を消毒するのが一番だと私は思う。手すりを使う必要のある人も、手袋よりも除菌液を持ち歩く方がいいと思う。または手袋の上から小まめに消毒することだ。
手袋だけではない。フェイスシールド、アルコール除菌液、アクリル板、そしてマスク…。
「身体が覚えて」しまって、対策した「気分」になっていないだろうか。
ここ1、2か月はそれでも大丈夫だった。感染者が少なかったからだ。それ以前は社会生活自体が止まっていた。
でも、これからは自分で自分の身を守るとき。形式化した対策は却って危ない。
何のために何をどうして防いでいるのか…今一度、自分の取っている対策の意味を考え直すときだ。
…なーんて言ってる自分こそ、注意しなきゃね😛
さてさてスーパーマンは、若い頃は蒸気機関車の運転手さんだったそうだ。どうりで高圧滅菌機の取り扱いが慣れていて、「高温高圧だから気をつけてくださいね」などと言おうものなら「なんの、これしき」と言って笑い飛ばされたものだ。確かに蒸気機関車に比べれば、高圧滅菌機などオモチャみたいなものかも。
旅行が好きで、よく海の向こうまで旅をされていた。
ハワイ7島回ったお話、アイルランド…、仕事が忙しくなければずっと聴いていたかった。
85歳くらいのときだったろうか、「もう歳をとってきたので近場にしました」と言うので、「どこへ行ったんですか?」と尋ねたら「スリランカ」と言われて驚いた。
お元気だったら100歳を超えているだろう。
今年は遠くに旅行できなくて…と言って笑うお顔が目に浮かぶ。