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「ラスト・ソング」のその後

トイレの次郎さん

食べることと排泄すること、どっちにこだわる?

と聞かれれば、誰もが、食べることと答えるだろう。

だけど実際、人は(いざとなれば)何でも食べられる。

いっぽう排泄となると、(いざとなっても)どこでも…というわけにいかない。

 

人間を一生物(いちせいぶつ)として見れば当然のことなのだ。

食べることは大切。食べられるときに食べておかなければならない。

が、排泄はどこでもいいというわけにはいかない。排泄中に捕食者に捕まることもあるし、捕食者に情報を与えることにもなる。排泄行為そのものが縄張り宣言になることもある。本能のゴーサインが出なければ排泄の扉は開かない。

おそらく、食べ物の好き嫌いが激しいのに、どこにでも排泄するような個体は、自然界では生き残れないのだ。最近の若者にはトイレの個室で昼食を摂る者もいるらしいが、学食や社食で排泄しているという話は聞いたことがない。

 

こんな簡単なことだけど、気がついたのは介護タクシーを運転してくれていたマグロさんと話した後だった。マグロさんはヘルパーの資格も持っていて、ヘルパーの学校では、自分もオシメを体験するという課題が出たと言う。

オシメに排泄するなんて簡単、と思ったけれど、「それが出ないんです」と言われた。

目からウロコだった。

 

振り返ると、今の日本はどこもトイレがキレイだから、そんな経験は滅多にしなくなったけれど、確かに、すごーくもよおしているのにトイレが汚くて出なくなっちゃった…ということはあった。不浄物を出すだけだから汚くたっていいじゃないかと思うのだけど、排泄環境に対して人は神経質だ。扉の外に人の気配がしただけで、折角もよおしたもの(ビッグベンのほう)が戻ってしまったこともある。

 

今まで通りに排泄できなくなれば仕方ないけれど、理性が優勢なうちは「今日からオマルでしてね」と言われても、はい喜んで…とはいかないらしい。

父も、歩行が危なくなり、夜間だけでも…とポータブルトイレを買ったのに、やれ便器が小さいとか、冷たいとか、いろいろ文句を言ってなかなか使ってくれなかった。中身を処分する人の顔が見えると、なおさら出なくなってしまうのかもしれない。

 

かくいう私も、父が主に使っていた1階のトイレは未だ、切羽詰まったときにしか使っていない。それも、トイレの中に花子さんや次郎さんがいるわけでもないのに、「失礼しまーす」と言いながら入っていくのを、我ながらおかしいと思う。