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「ラスト・ソング」のその後

真夏の夜の恐怖🎇

社会人一年生の夏、会社の同期に「隅田川花火大会」に誘われた。

男子4人女子2人くらいだったろうか、地方出身者または遊び慣れていない者ばかりだった。

 

新聞で打ち上げ時間と場所を確かめたくらいで、予備知識ゼロの若者たちは浅草に集合した。

打ち上げ予定時間の30分〜1時間くらい前だっただろうか。

 

行ってびっくり🤪

花火が見えると思われる場所はすでにびっしりと占領され、不案内の浅草の街を歩くしかなかった。

 

やがて日が落ち、花火が始まった。

花火というものは案外低い場所で炸裂する。

ビルの建ち並ぶ都会では、ちょっとした加減で見えなくなる。

私たちは花火を求めて、浅草の街を徘徊した🐾

 

花火大会の間中、そうやって歩き続け、花火が終わる頃、浅草駅に戻ってきた。

大量の群衆が狭い改札口から駅構内に吸い込まれていく。

後から押され、必死にホームに向かって走った。耐えず足を回していないと薙ぎ倒されそうだった。

浴衣を着ていかなくて良かった😮‍💨

 

命からがら地下鉄に乗り、新橋だか銀座だかで降り、ようやく喉を潤すことができた🍻

花火はぜんっぜん記憶に残ってないが、「かんぱ〜い❣️🍺の冷たさはまだ覚えている。

 

 ⭐️ ⭐︎⭐️⭐︎ ⭐️

 

それから数年後、今度は東京湾大華火祭に行った。

決して懲りなかったわけではなく、今度は「仕事」だった。

 

30歳のときに転勤して行った中央区は、「区で花火大会を主催している」ことを(並々ならぬ)誇りとしていた。

企業や周辺区の協力はあったものの、区の予算を湯水の如く使い、区の職員を動員して花火を上げていたのだ。

 

私も好奇心半分、尻尾を振って「アルバイト」に行った🐕🐖🐈

日当は良かったし、帽子やTシャツが配布されたし、夕食のお弁当も出たし、区役所から送迎バスも出た。

花火を間近で見れて、至れり尽くせり❣️みたいな。

 

しかし、とんでもない激務であった💦

群衆の誘導は、マニュアルや説明会くらいでできるものではない。

 

幸い当時の群衆は今ほどタチが悪くなく、悪さをする人間も、無理を通す人間もそれほどいなかったが、その後、地方の花火大会で死傷者が出たときは他人ごととは思えなかった。

 

区の財政も「正常化」し、そろそろ終わりにしたくなったらしいが、世間が許してくれなかった。

「メモリアル花火」と称してお金を集めたり、ボランティアを募ったり苦悩を続けていたようである。

 

しかしどんな仕事でも「ボランティア」に任せていいわけではない。

私たちが楽しんで群衆と戦っていたと、上の人たちは思っていたのだろうか?

事故が起こったとき、その責任をボランティアは取れるのだろうか⁇

 

「華火祭」を止めるきっかけとなったのは、東京オリンピックのどさくさだった😮‍💨

 

東京湾大華火祭の「バイト」で学んだこと:

花火大会は日没後に始まるが、場所取りは太陽が高い時間から始まる🕛

しかもビニールシートと弁当と水筒程度ではない。アウトドア用の椅子やワインクーラーまで持参する人もいた🍷

 

生半可な気持ちでは(特に都会の)花火は楽しめないのだ