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「ラスト・ソング」のその後

(92)共通の趣味

大学に入ってすぐの初夏、「薬草園実習」があった。

 

数人のグループに分かれて、大学に隣接する薬草園を見て回り、先生から説明を受けた。

都会の小さな薬草園。マンドレイクやケシ(モルヒネの原料)やアサ(大麻のもと)はさすがになかったが、ジギタリスやチョウセンアサガオくらいはあったと思う。

葉っぱを摘み取るとそこから独特な匂いを放つ植物が多かった。

 

数日後に試験があるとも言われた。今見た植物を「鑑別」し、学名などを答えなければいけない。

それまで植物に親しみのなかった私。植物の「顔」など、一回で覚えられるはずがない。

試験までの間、隙間時間に植物園に通って植物とお友達になった。脚は虫刺されの跡だらけになったが、試験はパーフェクトだった(と言っても、5問しかなかった)。香りが鑑別の助けとなったのを覚えている。

 

30代でイギリスにハマった私は、キューガーデンにも足繁く通った。

そこでは大航海時代に世界中から集められた植物が、大切に育てられていた。

イギリスでは滅多に見かけないイチョウの木も、元気に葉をつけていた。土壌から作り替えたのだろう。

セントポーリアも、ここでは野生の姿が見られる。どの栽培植物も、本来は野生だったということを思い起こさせてくれる。

 

学術目的の膨大なコレクションを抱えながらも観光客を惹きつける魅力に富んだキュー・ガーデンには、四季を通じて見所があり、同じ3月に行っても、春の訪れの早さによって黄水仙が咲き乱れていたり、クロッカスが群生して花を咲かせていたり。

真冬に行っても何も咲いていないと言うことはない(らしい…さすがに冬には行く気にならかった)。が、やはりベストシーズンは5月〜7月ごろだろう。

 

私の一番のお気に入りはロック・ガーデンだ。

岩がゴツゴツしているところに這うようにして、高山植物が可憐な花を咲かせていた。本来、山に咲いているはずの花たちが都会の真ん中で元気に花を咲かせているというのも、(後になって思ったのだが)すごいことなのだ。

 

イギリスには植物を楽しめる場所がたくさんある。貴族の邸宅、田舎のヒース、ロンドンの公園、そして個人の庭。

ロンドン中心部にあるチェルシー・フィジックガーデン(ここもオススメ❣️)も、オックスフォードにある薬草園も、郊外の花屋さんでさえ、豊富な種類の、珍しい植物に溢れている。

日本にはない植物を知るために、植物辞典も購入した。

 

父の蔵書にも、雑草や山野草の本が多い。

私の書棚にあるのと同じ本も数冊見つかった(買ったって言ってくれればよかったのに〜)。

父と植物の話をしたことはあまりなかったけれど、好みが似ているようにも思われる。

 

観賞用に丹精されたキクやバラよりも、小菊や野菊やノイバラが好き。花壇に整然と植えられた三色スミレより、道路の割れ目から出てきたスミレを愛しく思う。壮大な生花よりも野草の寄せ植えに心を動かされる。

サギソウやユキノシタを買って来たときの、父の嬉しそうな顔を思い出す。

 

家族ぐるみでそういう植物を見て回ったわけでも、家に植えてあるわけでもないのに、遺伝子は花の好みまで操作しているのだろうか。

 

自粛期間に、オランダにも植物園がたくさんあることを知った。シーボルトの祖国、シーボルトが日本から持ち帰った植物もある…とか⁉︎

植物園に行くには個人旅行をしなければならない…ということで、オランダ語の本も買った。

 

でもレッスン3から進んでいない💧

オランダは遠い。

 

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そこら辺に咲いている花たちの美しい写真や薬効だけでなく、文化や歴史にも触れてあり、無人島に行くときは持参したい一冊。

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「薬草カラー図鑑」のイギリス版。植物画だと大分雰囲気が違う。

 

GoToイベント

桂歌丸の落語を国立演芸場で初めて聴いたのはかれこれ20年ちかく前になるだろうか。

 

ある人からチケットをもらい受けて行った。まだ空席はたくさんあった。

 

話芸とはこういうものかと思った。

歌丸は喋っているだけである。

なのに、映画のように情景が浮かんでくる。

しかも道ゆく人は皆、和服を着ている。私が見たこともない、熊さんはっつぁんの時代である。

歌丸と私の間の空間に3Dの時代劇が繰り広げられているのだ。

 

どの噺家でもそういうわけにはいかない。喋る間合いや呼吸の為せる技なのだろう。

 

そんな歌丸の芸が人々に知れ渡り、毎回満席になり、チケットが容易に取れなくなるまで時間はかからなかった。

 

かねがね落語に関心を持っていた父も、国立演芸場に足繁く通うようになった。

新春演芸と恒例の8月の歌丸の怪談噺には、いつしか二人で行くようになった(これらは必ず満席になるので、ネットでなければ買えないのだ)。

 

歌丸の怪談には4回くらい、二人で行っただろうか。毎回「大入袋」が出ていたと言う。

しかし、いつも…というわけではないけれど、父と私どちらかの隣の席は空席だった。

 

おそらく当日になって具合が悪くなったり、都合が悪くなる人がいるのだろう。

だけど、ざっと見渡して、そういうドタキャンと思われる空席は数個しかない。それが必ずのように我が家の席に隣接してあるのはちょっと妙でもあった。

 

私は、ひょっとしたらこの席に母が座っているんじゃないか?…という気がしてきた。

 

落語に行くようになったのは母が亡くなってからのことだし、母が生きている間も、三人で劇場に行った記憶は数えるくらいしかない。それも私がせいぜい二十代の頃までだ。

だけど、なぜか、そこに母がいるような気が私にはした。

 

父が亡くなった後、友人が行けなくなったからと、ランチ・コンサートの券を送ってくれたことがあった。N響の有名コンサートマスターがMCと演奏をする楽しいクラシック・コンサートだった。

どっちかと言うと、中高年のマダム(私もそうだけど)向け。父が生きていたら「オレが行くよ」と言いそうなものだった。

 

友人は一人で行くつもりだったようで、送ってくれたのは一枚だったけれど、何故か隣の席は空いていた。他はほぼ満席である。

私は、この空席に父が座っているのではないかという気がしてきた。

 

満席のときでも、何故か私の周りには空席が多い。

飛行機でも、数回、そんなことがあった(これほどありがたいことはない)。

そこに父が座っていると思うのは、想像のしすぎだろうか? 父ではなくて祖父なのだろうか?

 

昨年ジャズダンスの公演を観に行ったときも、満員御礼ながら、私の前の「招待席」は空いていた。私はそこに、出演者の最愛のお母様が座っているような気がしてならなかった。

 

空席は偶然もたらされるものだ。でも、あの世にいる、この世の人の愛おしい人たちが(コンピュータ・システムに忍び込んで)密かに予約を入れているのかもしれない。

 

新型コロナウイルスのおかげで、コンサートなどのイベントでは座席を空けるようになった。

私も先日、バレエの公演を観に行ったが、席は一つおきだった。

あの席には、あの世の人たちが、ひょっとしたら座っていたりするのだろうか?

心霊写真(昭和にはよくあった)が撮れたとすると、満席になっているのだろうか!?

 

あの世でも、話題になっていたりするのだろうか?

「あの世(つまりこの世のことである)のイベント、座り放題 — GoToイベント・キャンペーン」

訪欧大飛行

大正14年7月、「初風(はつかぜ)」「東風(こちかぜ)」という2機の飛行機が代々木練兵場(現在の代々木公園)から飛び立った。

乗員は4人、そのうちの一人が私の母方の祖父だった。祖父は飛行機の機関士だった。

 

まだエンジンの性能も低く、事故死する飛行士の数が年間20人近くにものぼった時代、95日をかけて、平壌、モスクワ、ベルリン、パリ、ロンドンなど20余箇所を経由し、ローマまで飛んだと言う。飛行高度もおそらく低く、計測機器も発達しておらず、操作もメンテもマニュアルで、大陸を横断するのは、知力・体力・判断力だけでなく、運を味方につける力も必要だったのではないだろうか。そうやって到着した先々で、祖父たちは大いに歓迎を受け、日本の飛行技術の高さを世界中に知らしめることになった。

 

本来だったら、一族の誇りで、いくら自慢してもしきれないほどの出来事である。

にもかかわらず、私は、母が亡くなって数年経つまで、この事実を知らなかった。

飛行機乗りだったということは聞いていたが、母が多くを語ることはなかった。

 

おそらくそれは、母が控え目だったからだけではなく、母が祖父をよく知らなかったからではないだろうか。

祖父が亡くなったのは、母が4歳のときだった。飛行機乗りという仕事柄、家に帰ることも少なかったのかもしれない。記憶もほとんどなく、話だけに聞く “飛行機乗りのおじさん” を、父親として誇るのは難しかったのだろう。

ひょっとしたら、母は、そんなに偉いお父さんでなくていいから、一緒にいてほしかった…のかもしれない。

 

母から語られることのなかった祖父の像が私の中に結ばれ始めたのは、横浜で展覧会が催され、「朝日新聞訪欧大飛行」(前間孝則著)という本が出版されてからだった。祖父の写真も何枚か見ることができた。飛行機を背景に、飛行服に身を包んだ祖父からは後光がさしているようで、当然ながら母や母のきょうだい達によく似ている。

 

しかし我が家に飾ってある写真の祖父からは、後光はさしていない。

おじいちゃんったら、何がそんなにおかしかったのだろう?…と問いかけたくなるような写真だ。

 

一生に何回、写真を撮るか…というほどの時代、真面目な表情でレンズに向かうのが普通だ。なのに写真の祖父の表情筋は思いっきり緩んでいる。そして丸メガネをかけた祖父の顔は、母のダンナさま=私の父によく似ている。

母が、父との結婚を決めたのは、案外、意識下の記憶に刻まれた、こんな祖父の笑顔だったのではないかと思った。

 

祖父は無事にフライトを終え、飛行機ともども船に乗って日本に帰ってきたが、数年後(昭和7年)、日満議定書調印のニュースを積んで満州から大阪への飛行中に山陰沖で消息を断ち、後日機体の一部が発見されたという。

ずっと後になって、鳥取県の八橋城跡に「飛行殉難碑」が建てられた。

(もうちょっと交通アクセスの良いところに建ててほしかった。)

 

つい先日知ったのだが、祖父が海上で命を失ったとされる日は9月15日だという。

父の命日と同じ日だ。

これからは9月15日に、お供え2倍にして拝ませていただこうと思う。ウチの仏壇だけど、家庭の仏壇はあの世のATMみたいなもの。きっとあの世の本部は繋がっている。

 

祖父はシベリアの大地で、ヨーロッパの街で、どんな景色を見たのだろう?

アルセーヌ・ルパンやシャーロック・ホームズにも会ったのだろうか。

パリではカフェ体験もしたのだろうか? テムズ川の鰻はどんな味だっただろう?

英雄と言えど、まだ30代そこそこの青年たちだ。初めて見る風景に目を輝かせ、珍しい食べ物に舌鼓を打ち、青い目の美人に見惚れた…こともあったかもしれない。

 

祖父のことを知るずっと前から、私は空の旅が大好きだった。

地上を走る自動車ではすぐ酔うのに、飛行機は乱気流にあっても大丈夫。生まれつき魔法にかけられていたかのようだ。

 

しかし、船も、自動車も、電車も、バイク・自転車も、あてもなくふらっと乗ることができるというのに、飛行機にはふらっと乗ることはできない。クルーズ船はあってもクルーズ飛行機はない。

 

父の介護中にも思ったのだけど、数時間だけでいいから雲海を堪能して、”美味しい” 機内食を味わって、Duty Freeでお買い物ができるツアーがあればいいのに…。

飛行機のミステリー・ツアーなどがあっても楽しいのに…。

JALさん、よろしくお願いします🙏

 

残りの人生の中で、私は祖父の訪れた地を自分の目で確かめて来たい。

2025年、祖父の訪欧大飛行から100年になる。

その頃には自由に旅行ができるようになっていますように。

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「訪欧大飛行」ノート。飛行士4人の一番右が私の祖父(らしい)。