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「ラスト・ソング」のその後

失われた庭

5月初旬だっただろうか、マスクをした、品の良い初老のジェントルマンが私に頭を下げてきた。

 

…はて、どなたであろう?

 

ニコニコと優しそうな目に覚えがある。

前世で関わり合いのあった人は目を見た途端に分かると言われるが、ついにその御仁にお目にかかれたのだろうか?…と、振り返って彼を確かめた。

彼は、我が家の斜向かいにできたマンションに入っていった。

 

なんだ、花庭さんのおじさんではないか。

スーツとマスクをお召しになっていたゆえ、分からなかっただけだった。

“赤い糸” ではなかったのかと、ちょっとがっかり。

 

それまでの花庭さんは、いつもスポーツカジュアル…早い話、気楽な格好ばかりだった。若い時はご立派な職業だったのだろうが、飾らない人柄がそのカジュアルな装いに表れていて、心地よいご近所付き合いをさせていただいていた。

が、マンションのオーナーとなられた今、そんな格好でマンションのエレベーターに乗るのも憚られるのかもしれない。花庭さんはスーツもスマートに着こなされていた。

 

我が家も20年ほど前に、マンション建築案が浮上したことがあった。

実現していたら、父も私も、もうちょっと垢抜けていた “かもしれない”。

 

さてさて、花庭さんの土地は、ざっと見積もっても我が家の6倍以上はありそうで、かつては大きなお庭があった。

我が家の2階からちょっとだけ覗かせていただいたが、手入れの行き届いた芝生に色とりどりの花が一年中咲いていた。早春にはウグイスの鳴き声が聞こえてきた。

 

かつては花庭さんの両隣にも壮麗なお庭があった。有名な造園家の作った庭もあったらしい。花庭さんのお庭を越えて向こうのお家では、高い塀に見事なバラが蔓を這わせ、通りがかりの人たちの目を楽しませてくれていた。我が家の猫の額より狭いような庭でも、そういうお庭に歩調を合わせるように手入れをしてきた(つもりだ)。散歩をするだけで四季の移ろいを楽しむことができるのも、この界隈ならではだったと思う。

 

そうやって、ここら辺一帯の庭が合わさって小さな “生態系” が形成され、我が家にもカエルが遊びに来たり、撒いてもいない花の種が勝手に芽を出した。ノイバラ、サンショウ…、何故かトゲのある植物が多い。

 

花庭さんのお庭は、年に2回ほど造園屋さんに来てもらって手入れをしてもらっていたが、それ以外は自分たちの手で世話をされていたようで、スポーツカジュアルは必要に迫られてのファッションだったのかもしれない。あれほどの面積をあれほど(と言っても、ほんの一部しか見えなかったのだが)美しく保つためのお手入れは、苦労が多かっただろう。

 

そのお家を賃貸マンションに建て替え始めたのが、今から2年ほど前。

この3月に完成予定と聞いていたが、実際に入居が始まったのは5月だった。

5月と言えば緊急事態宣言のまっ最中。花庭さん夫妻は入居されたようだが、殆どの部屋の灯は真っ暗なままだった。7月になり、レースカーテンが翻る部屋も増えたが、まだ我が家に対峙する窓は1階から3階まで、ひと気はない(ごめんなさい、かなりホッとしています)。

 

気がつくと、花庭さんの向こうのバラのお家も、ほぼシンクロしてブランドものの分譲マンションに化けていた。

 

花庭さんのマンションは、個人所有にしては大きい。家賃収入を見込んで多額のお金を借りただろうに大丈夫だろうかと、つい余計な心配をしてしまう。

そして、我が家も同じ轍を踏んだ可能性もあったと考えると背筋が寒くなる。

固定資産税だけでも大変だわ😱

 

マンションにするという花庭さん夫妻の決断は、突飛なものでも画期的なものでも、無茶なものでもない。

我が家にも毎日、不動産屋やデベロッパーから郵便物が入る。相談だけでも…と言われて、うっかり連絡を取ろうものなら、完成予定の模型までいつの間にか出来上がっている。

「自己資金など要りません。この辺りですと高い家賃が取れますから、すぐに借金は返せます。それどころか儲けがこんなにあるので老後は豊かです。お子さんたちにも残せます」業者さんは口を揃えて言う

 

業者だけではない。

「マンションにしないの?」とフツーの人にも言われる。まるでしないのがケチか変わり者であるかのように(確かにケチで変わり者かもしれないけど。)

 

新型コロナウイルスが世に出る前、この辺りはいわゆる人気エリアで、住みたい人がわんさか押し寄せていた。

どんなに小さな場所でも、新たに建てられるのは集合住宅や店舗だった。

住民の増加に商店が追いつかず、緊急事態宣言下ではスーパーがぎゅうぎゅうになった。

 

でも、目に見えない病原体が、その構図を変えようとしている…かもしれない。

この界隈に住むメリットは、中心地へのアクセスの良さだけだ。あとはデベロッパーやマスコミが作り上げた、地名(駅名)から連想されるイメージにほかならない。

 

テレワークが主流になれば、利便性は二の次になる。家族内感染も防止しなければならない。今までは寝に帰るだけだったけれど、これからはもうひと部屋ほしい。…ということで家賃/価格の安い郊外が人気となる。最近のトレンドは小田原だと聞いた(!)

人の価値観など、あっという間に塗り替えられてしまうのだ。

 

昭和にはニュータウン構想で郊外の緑地や畑地が失われ、平成になると地上げと再開発で都内の昔ながらの住宅地が高層化した。令和にこれら住宅地はゴーストタウン化し、新たな住宅地がトレンドの名乗りを上げる。

 

そもそも何故、住む土地に “流行” があるのだろう?

渋谷、銀座、お茶の水…、繁華街に特色があるのと同じように、住宅地にもその土地特有の雰囲気があって、それを魅力と感じる人たちが、そこにある器におさまればいいだけの話なのに。

住みたい人が増えたからと、器のほうを変形させてしまったら、その土地本来の良さが失われてしまう。

 

実際、花庭さんと、その向こうのバラの咲くお家は、お互いの庭がお互いの価値を高めていたのかもしれない。窓を開けてそこに見えるのがお互いのマンションの窓だったら、あえてここのマンションを選ぶ意味もないわけだし。

 

部屋を借りる人は引っ越しをすればいい。買った人は売ればいい。

でも、部屋がうまらないまま借金が返せなくなったら、花庭さんはどうなってしまうのだろう?

(ローンというものは高占有率を想定して組まれるものだ。)

 

何より、失われたあの美しい庭は戻ってこない。

日本人に生まれてよかった。

もし本当に、お盆にご先祖様がこの世に帰ってくるとしたら、ご先祖様ご一行はさぞかし驚かれることだろう。

このマスク集団に。

 

季節を間違えたかと思うお方もおられるかもしれない。

 

いやいやご先祖様、確かに今は夏でございます。

悪い病が流行りまして、みんなしてマスクをしているのです。ご先祖様も、お土産におひとつどうぞ…ってか。

 

公共交通機関などでのマスク着用が法律で義務付けられている国もあるらしいが、日本ではその手の法律が一つもないのに、それもこの高温多湿の中でのマスク着用率の高さはすごいと思う。

場所によっては、マスクをしていないと摘み出されることもあるけれど、基本的に罰せられることはない。

 

よく考えると、「三密を避ける」「手洗い」などは、実行する本人のためである。

だけど、マスクは自分のためにしているのではない。

 

花粉症の人なら身体でわかっているはずだ。

本当に花粉が多くなってくると、目の細かいマスクをしていてもくしゃみが出ることがある。マスクの網目を花粉が通り抜けて入ってくるからだ。花粉よりうんと粒子の細かいウイルスがマスクを通り抜けないはずはない。おまけに、マスクのこちら側では呼吸をしている。吸引力のさほど強い人でなくとも、マスク周りの粒子は吸い込んでいるはず。

つまり、マスクに予防効果は期待できない。”完全に”  他人のためだ。

 

よって炎天下、熱中症のリスクを冒してまで(他人のために)マスクをする必要はない…のだ。

 

実際、外国の映像を見ると、マスクを義務付けられている国でも、マスク率100%というわけにはいっていないらしい。

それなのに汗をかきかきマスクをしている日本人は凄い、偉いと思う。

 

新型コロナウイルスパンデミックの第一波が収まりつつあるとき、西欧諸国に比べて日本人の罹患率、致死率が低い理由があれこれ論じられた。

ノーベル賞受賞の学者さんは、HP上でこれを「ファクターX」と名付けられた。

BCGの接種率ではないかとか、他のコロナウイルスとの交差免疫の可能性も囁かれた。

 

でも、そういうものだったら実際にクラスターができるはずがない…でしょ?

 

遺伝子説も持ち上がり、遺伝子解析もされているらしいけれど、「日本人に特有な遺伝子」なんてあるのだろうか?

江戸時代に鎖国されていたと言っても、それ以前、それ以降に遺伝子の混合は行われているし、もし日本人の遺伝子であるなら、外国に住んでいる日本人の遺伝子を持っている人たちも感染しないはずだ。

 

中国や韓国では感染が収束しつつあるらしいが、これらの国々では法律を厳しくすることで抑えられたのだと思う。

日本には、そういう法律は一切存在しない。

 

それでも、そういう国々同様、感染が収束に向かっているのは、私は「自らマスクをする」国民性だと思う。

目の前にいる他人だけではなく、誰だか分からない人のために、暑さを我慢してマスクをする国民性。それも、タダで配られたアベノマスクを仕方なくはめる “受動的マスク” ではなく、自分で幾ばくかのお金を投じてオシャレなマスクを選び、誇り高くはめる “能動的マスク” だ。

 

おそらくそれは、スポーツ観戦後や飛行機を降りるとき、座席周りをキレイにしてから帰るという習慣にもつながるものかもしれない。顔顔の見えない誰かのために、やっていることだ。

 

日本人に生まれてよかったそう思いませんか?

七十路のモーツァルト

父は72歳からピアノを始めて発表会にも出た。父について私が一番自慢していることだ。

「他に自慢することがあるでしょう」と言われそうだけれど、”昔取った杵柄” なんかより、私にとって父が一番カッコよかったのは舞台の上でピアノを演奏している姿だった。

 

父は定年退職後、ハーモニカを習い始めた。子供の頃にやったことがあってとっつきやすかったくらいの理由だと思う。当時は楽譜もイロハ読みだったらしい。

 

なので、当初は楽譜をイロハで読んでいたが、ドレミに直された様子だった。

さらにいろいろな曲を演奏するにしたがい、音楽記号や用語に遭遇し、それらを勉強するために、音楽の基礎的なことを教えてくれる講座に入ったらしい。そこで鍵盤楽器に触れ、叩いているうちに「いっそピアノを習おう」ということになったと言っていた。

ピアノを習い始めたのが、母が亡くなった直後くらいだったと思う。

 

当初は数千円のキーボードを買ってきたが、すぐにそれでは鍵盤が足りなくなった。

そこで私がボーナスを叩いて、ピアノ型のキーボードをプレゼントした。

我が家は家財道具や洋服にはお金をかけないが、マグロの刺身と楽器には(ちょっとだけ)お金を惜しまない。一人ぼっちで1日を過ごす父の、新しいパートナーとなった。

 

ピアノを始めて1年くらい経った頃だろうか、発表会があると言った。

「ふ〜ん」と関心のないふりをして聞いて、観に行った。私が行くと知らないほうがいいだろうと思ったからだ。

 

歳をとってから始めたおじいちゃんおばあちゃんばかりの発表会だった。

この歳になれば怖いものなどないだろう…と思ったのだが、みんな上がりに上がってしまっていた。上がっているのが客席の一番後ろでも分かって、救急車を呼ぶことにならないかと、他人事ながら心配になった。

 

父は大きな間違いをするでもなし、頭が真っ白になった様子もなし、落ち着いた様子で、無事に舞台を終えることができた。モーツァルトだった。

私は、子供の発表会に付き添う親の気分を味わせてもらった。

こっちまでドキドキして心臓には悪かったが、素敵な発表会だった。

 

かつて幼児教育方面に進学した高校時代の先輩がいたのだが、大学に入って何を苦労したかというと、両手でオルガンを弾くことだと言っていたことがある。両手を使って複数の鍵盤を同時に押すという作業は、子供には簡単だけど歳を取るほど難しくなる。10〜20代でも苦労した人がいるのだ。70代で始めようというガッツもさることながら、人前で曲を弾くのはスゴイことだと思う。

 

思えば、発表会に出ていた人たちは戦中戦後のモノのない時代に育っている。昔は高嶺の花だったピアノを自ら奏でることで、自分の人生のフィナーレを飾ろうとしていたのかもしれない。

 

そして父の、この姿を知っているのは私だけだ。

私はこの時の父を、一生忘れない。

 

父が亡くなってから、キーボードは寂しそうにリビングに佇んでいたが、緊急事態宣言下でピアノの練習の場を失った友人に提供しようかと思って、拭き掃除をした。

友人は結局弾きには来なかったが、せっかくキレイになったのでちょっと弾いてみた。

ン十年ぶりなのに悪くなかった♪

そうそう、伯母も中年になってからピアノを始めて、結構上手だったっけ。きっと我が家には音楽家の血が流れているんだわ…と、歌舞音曲を楽しむには思い込みも大切。

 

デパートで楽譜を何冊か買ってきてみた。ピアノの楽譜はリーズナブルで、ついつい買いすぎてしまった。

バッハの曲を弾くときチェンバロの音にしてみたら、なんかとても素敵な気分になった。

以来、陽が落ちるとピアノ曲を数曲弾き、最後にチェンバロの音色を楽しむ。

 

バッハが聞いたら、自分が作曲した曲だと分からないかもしれない。でも、そんなことは関係ない。音楽は楽しむためにある。この密かな楽しみは、コロナで凹んでいた私への父からのプレゼントなのかもしれない…と思うことにしよう。

 

実は、父がピアノを習っているとき、一度だけ父の前で弾いたことがあった。

さらさらと得意げに弾いてしまって、見ると父がとても悲しそうな顔をしていた。

一生懸命練習しているのになかなか上手く弾けない父の前で、なんて残酷なことをしたのだろう…という気持ちになって、以来、弾くのをやめたのだった。

 

父の最後の入院が8月15日。私にとって命日より思い出されることが多い。

あの年にだけは戻りたくない、思い出したくもないと思っていたはずなのに、酷暑とコロナの今年からすると、なんていい時代だったのだろうと懐かしくさえなってくる。

 

毎日の面会が許された。べたべたスキンタッチもできた。最期の夜を病室で一緒に過ごすことができた。ささやかながら人を招いて葬儀もできた。今年だったら、こんななんでもないこともできなかったかもしれない。何よりあの年は、異常気象の針が涼しい方に触れていた。

今年、あのような介護・看護をされている方はさぞかし大変なことだろう。

 

いい時代だったよねぇ父に語りかけるように、キーボードのスイッチをONにする。