Last Song Latest

「ラスト・ソング」のその後

同期の桜🌸

代々木公園の前、道路をまたいで小公園が2つあり、桜の大木が数本、見事な花を咲かせている。

が、3年くらい前だろうか、おかしな形に木が切られてしまった。
伸びて邪魔になった枝を剪定したとか、台風で枝が折れたから形を整えたというのではない、敢えて醜い形にされてしまったような、ヘンテコな木になっていた。

剪定作業を見ていた美容師さんによると、虫が付いただか、病気だかで、悪いところを切り落としたらあんな形になっちゃったんです💧とのことだった。

そして今年、公園周辺を花見散歩していて気がついたが、おかしな形をした桜の木はあちこちにあった。
数年前、見事な花を咲かせていた木があったところへ行っても、雲のように伸びていた花枝は短く、食べ終わりのワタアメのようになっていた。
花の付いていない枝も残っていた。病気になった枝を落とされて、まだ残っていたのか、新たに病気になってしまったのか。

ソメイヨシノは野生種ではなく、人工的に作られた。
なので寿命は短く、せいぜい60年と聞いたことがあった。

それがもっと長いらしいことが分かってきたが、どうやら病気の枝を切り落としたら・・・なのかもしれない。
代々木公園は、前の東京オリンピックの選手村だったところを整備して作られた。
小公園はその数年前に作られたので、ざっと計算して、桜の木も50代半ば~60歳。
桜の木も、50代を過ぎたら健康チェックをして悪いところを切り落とさなければ長生きできないのかもしれない。

🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸🌸

昨年末、高校時代の同窓会があった。もちろんオンラインです。
案外集まらなかった(デジタルの問題より、美味しい食べ物が出てこないからだと思う…😅)けれど、集まった数人のうち半数が何らかの病気を経験していた。
それも結構深刻な病で、処置をしなかったら、検査をしなかったら、オンラインでも出席できなかったかもしれない。多くの人がコロナ禍中の闘病で大変な様子だった。

年賀状も「大病を克服しました」ならまだいいほうで、ご家族から訃報が届くこともある。
元気いっぱいに見えても、薬を欠かしてはいけない友人も何人かいる。
そう言えば、母が最初に病気に気づいたのも50代の半ばだった。

医学が進んでいなかったら、多くの人が、還暦になる前に命を落としていたかもしれない。
還暦はおめでたいものなのだとあらためて実感した。

そう思うと、枝を落とされたソメイヨシノも愛おしくなってくる。
幹はまだまだ元気。
落とした枝のことなど忘れて、来年もまた咲いてほしい。

「桜は来年も咲きます」と小池都知事が言ったのは、もう3年前。
桜も人間と同じ。今年の桜は来年の桜より若く、美しいのです。
今年の桜は、今年しか見られないのです。

マスクをして、今年の桜を目に収めに参りましょう🌸🌸🌸

f:id:auntmee:20220327150343j:plain

今年の桜

 

ソビエトってどんな国

父は、(会社以外)どこにでもトランジスタラジオを持って行っていた。
旅行に行くとき、朝のウォーキングに行くとき、お風呂に入るとき、入院したとき。

晩年、目が悪くなってからは特に、ラジオを愛聴していた。
土曜日の永六輔の番組がお気に入りだった。今はあの世で放送されている・・・はず。

私の幼いころは重ーい小型ラジオを持って歩いていたが、やがて軽量小型化し、値段も安くなり、いろいろ試していた。おそらく父が買ったトランジスタラジオの1つを私がもらい受けたのではないかと思う。
いつしか、私もそのラジオを持って入浴するようになっていた。

十代の私の入浴時間は真夜中の11時半より早いことはなかったと思う。
シンと静まり返った中でラジオのスイッチを入れて、のんびり湯船に浸かった。
当時のラジオは、つまみが2つ。音量つまみとチューニングつまみ。今のラジオのように、自動チューニングではなかった。

お風呂に入ってチューニングつまみをいじっていると、局と局との間にも、周波数の合うチャンネルがあった。
モスクワ放送という放送局だった。夜の数時間、日本向けに放送されていた。数回聴いたと思う。日本語放送のない日には、ロシア語放送も聞かれた。重厚で歯切れのよい発音は聞いていて気持ちがよかった。漠然と、ロシアに憧れた。

その後、ソ連に行く機会があった。年末年始をまたいで、モスクワからレニングラード(現・サンクトペテルブルグ)を旅行する。バレエやオペラの鑑賞が付き、リハーサルやレッスンの見学もできるツアーは、私と同年代の女子が中心となって50人近くの参加者がいた。

厳冬のソ連だったけれど、室内はどこも暖かく、出会う人たちもあたたかかった。
ある日、友人が部屋を出た後、忘れ物に気付き、部屋に戻ってみると、掃除のおばちゃんが、私たちが放置した「あめちゃん」を舐めながら鼻歌を歌いながら掃除をしていたよ…と、愉快そうに報告してくれた。以来、私たちは、ツアーに出かけるときは「あめちゃん」をいくつかテーブルの上において出かけるようにした。出先でロシア人とふれあう機会があると「あめちゃん」をプレゼントした。

ただ、当時、超酸っぱいキャンデーが流行っており、私が大量に持っていたのも「スーパーレモン・キャンデー」。お口に合ったかどうかは不明だ(日本の飴は刺激的ィ!・・・と思われたかも)。

日によっては日中マイナス40度のこともあり、決してモノが潤沢とは言えない共産圏の国。いろいろ不自由もあろうに、人々は明るく、たくましく生きているように見えた。

旅行は、とても楽しかった。食事も、とってもおいしかった。
欧米の文化は日々目にしていたが、建物のデザイン、インテリア、食器や小物の色使い・・・、何もかもが新鮮で魅力的だった。紅茶の甘ささえ斬新だった。クマの毛皮のコートを買って帰ろうかと真剣に悩んだ(やめてよかった)。

日本人にそっくりなロシア人(おそらく中央アジア出身)も少数ながら見かけたし、お正月には日本と同じ干支の動物があちこちに飾られていて、親近感も感じられた。

同じツアーに参加していたエミちゃんは、帰国後会社を辞めてロシア語の学校に行き、ロシア語の通訳になったと聞いた。エミちゃんのお友達は、ロシア人男性と結婚したと聞いた。
違うツアーの人には、ソ連で買った毛皮の帽子を、帰国後、毎年大切に被っている人もいると言う。
みんなが何かの形で「ロシアかぶれ」になった。

f:id:auntmee:20220312142745j:plain

東側の国の話は、西側しか知らない私たちに対して強い引力を持っている。

私も、テレビとラジオでロシア語の勉強を始め、テレビに出演したこともあった。

ロシア語学校に通う友達に誘われて、ソ連船に遊びに行ったこともあった。富裕層のクルーズ船のようで(でも豪華ではなかった)、晴海に数日停泊して観光ししているようだった。みんな気のいい人たちで、おいしいシャンパンを浴びるように飲ませていただいた。
挨拶くらいしかロシア語の分からない私だったが、歌ったり踊ったり楽しい時を過ごさせてもらった。

私が旅行から帰った直後、日本では昭和が平成となり、ソ連ペレストロイカが始まった。
ロシア語の勉強は頓挫したが、ロシアやソ連について書かれたノンフィクションの本を読みあさった。
ロシアとなって、マクドナルドやブランド店が建ち並ぶモスクワをもう一度訪れたいと思った。
じっくり時間をかけてエルミタージュ美術館を回りたい、地下鉄に乗りたい、モノが豊富になった(であろう)デパートで買い物もしてみたかった。

f:id:auntmee:20220312142910j:plain

ソ連とロシアのガイドブック。キエフ情報も満載。

「行くなら、今でしょ」と思ったのが2年前。
モスクワとサンクトペテルブルグを訪れるツアーに申し込んだ。
前回が冬だったから、今度は夏に行こう…と思ったのがいけなかった。

夏が訪れる前に、新型コロナウイルスの流行が訪れてしまった。
伝播が遅れたロシアだったが、5月ごろには大流行となり渡航禁止。ツアーも中止となった。
ウイルスが収まったら…と思っていたところ、戦争が始まってしまった💧

今回の旅行に備えて買ったガイドブックと、ソ連時代のガイドブック。
2冊とも、ウクライナにかなりの紙面が割かれている。
毎日ニュースで報じられる街の写真もたくさん載っている。歴史的な建物も多い。

美しい町並みは全て破壊されてしまったのだろうか。
次に発行されるガイドブックはどのようなものになるのだろう。

ソ連は嫌な国だけど、ロシア人はいい人たちだよ」と、昭和40年代に仕事でソビエトを訪れた父が、旅に出る私に言った。その通りだった。
あの頃も空港などにはたくさんの軍人が歩いていたが、よく見ると皆、イケメンの若い男性。手を振るとニコニコと振り返してくれた(こっちも若い女子だったし)。

一人一人は日本人と変わらない善良で友好的な人なのに、その人たちが集まって国を作ると牙をむく!?
憎むべきはほんの一部のロシア人なのだ。

国を憎んで人を憎まず。
"多くの" ロシア人は、ウクライナ人同様、被害者でもあるはず。
民族も原語も同じ。ウクライナに親戚や友人知人のいる者もいるだろう。

ロシア人やウクライナ人たちとシャンパンで乾杯できるよう、一日も早い停戦を。

狐憑き🦊

コンコンコンコン…

私は子供の時から咳っぽい。一生のうちにする咳の回数が普通の人の10~100倍くらいあるのではないかと思う。

風邪をひくと、原因微生物が何であれ、喉から始まって鼻にいき(1~2週間)、その後咳が短くて1か月、長いと2、3か月続く。それも尋常な咳ではなく、狐に憑かれているんじゃないかと思うほどだったりする。咳のし過ぎで翌日、腹筋が痛くなり、痛いお腹をかかえながら、それでも咳をしていた経験も数知れない。
シュガーレスののど飴を作った人には頭が上がらない。

コロナ前、風邪の治り際に洋画の展覧会に行った。
何の展覧会だったか忘れたけれど、そこそこ混んでいた。
ある名画の前で、例の咳き込みが始まった。咳き込むだけ咳き込んで気が付くと、私の周りの人たちはどこかへ消えていた。コロナなどないときでも、他人の咳は不快感/不安感を呼ぶらしい。
今だったら学芸員が飛んできて、つまみ出されているだろう。

ヨガでも、俗に言う「スキのポーズ」をすると必ず咳き込む。
今はヨガはやっていないが、ボディーワークのクラスで似たようなストレッチが出てくると、できないことにして割愛させていただいている。
「咳の激しい方のご受講はお断りします」と書いてあるんだもん。

年齢を重ねると喉の繊毛が擦り切れてきて、おまけに粘液が減るので、何でもないのに咳き込むことが増えるらしい。花粉症で咳が出る人もいるらしい。
おまけに、私の場合、ちょっとしたはずみで唾液が気管支のほうに入ってしまうようで、ものを食べたり、人と会話をしているだけでも咳き込んでしまう。

コロナが流行してから、近所のスーパーに行ったとき、そこそこ混んでいた。
「ここで咳き込んだら、絶対嫌われるよね」なんて思った瞬間、唾液を飲み込んで咳き込んでしまった。
咳のことを考えるのもいけないらしい。

ただでさえこうなのに、最近の電車やバスでは窓が開いているので、温度の違う空気が流れ込んで、いつもより咳き込みやすい。止めなきゃと思いながら咳き込むのは、本当につらい。
コロナ禍の中、電車やバスに乗るのを恐れているわけではないけれど、車内で咳き込むことが怖い。

でも、このような世の中だからこそ、ほっこりした気分になれたこともあった。

先日、あるところで(例によって)咳き込んだ。
その時、目の前にいた方が、咳き込む私を温かい目で見守ってくださって、ようやく収まったとき「今時、こういうの困りますよね」のように言ってくださった。

温かいお心遣いが嬉しくて、私が男性だったらプロポーズしたいと思ったくらい(ご迷惑ですね)。
…いやいや、男女を問わず、このような方と一生お付き合いをしたいと思った。

放っておいてほしい人、かまってほしい人…人により様々だと思う。
ただ、苦しい最中に、咳を止める呪文でない限り、話しかけるのはNG。収まるまでそっとしておいてくださいね。明らかに "むせ" ている場合は、背中を叩くなどして、あまりに苦しそうだったら救急車を。

私の思うところでは、コロナでこれほど咳が出るとしたら、それ以前に熱が出ていると思う。
確かに無症状の感染者が咳き込んだらリスキーではあるが、そこら辺を歩いている人がウイルスを持っている確率は200人に1人程度(2月28日現在)。お互いマスクをしているわけだし、咳をしたくてしている人はいない。そんなに気味悪そうな視線を投げかけないでね。

欧米では、くしゃみをした人に「Bless You(神のご加護がありますように)」と言う。
咳き込んだ人には、欧米にも日本にもそういう言葉はないらしい。
早く堂々と咳き込める世の中になってほしいと切に思う。