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「ラスト・ソング」のその後

電気屋のお兄ちゃん

今は買物困難区域とも言えるこの界隈だけど、かつては賑わいのある商店街が3つも4つもあった。

我が家はその中でも、今では一番寂れてしまった商店街を最も頻繁に利用していた。

 

私の記憶の中で、その商店街は写真屋と「洗い張り屋」に始まり、背広の仕立て屋、八百屋・魚屋の入った「マーケット」、建具屋兼文具店、酒屋、荒物屋、パン屋兼お菓子屋、豆腐屋、中華料理店(リリィ🍜)、鳥屋、牛乳屋、風呂屋、床屋、靴屋、そして一番奥にあったのは電気屋だった。

 

高度成長期。どの商店街にも必ずあって、おそらく一番儲かっていたのが、この電気屋ではないかと思う📺

「ナショナル」の看板がかかっていたその電気屋から、我が家は実にたくさんの商品を購入した。

 

それらの商品が家にやって来た日のことを、私は覚えている。

と言っても、洗濯機、掃除機、冷蔵庫、テレビは物心ついたときからあったので、これらに関しては2代目の買い替えのときになる。

 

当時は家電の進歩が目覚ましく、1代目はただの洗濯機だったのが2代目には脱水槽がつき、ただの冷蔵庫がやがて冷凍冷蔵庫になった。テレビも、外付けアンテナで見やすくなり、チャンネル合わせがリモコンになった。

母はその度に、どんなに便利になったか、何ができるようになったかを、幼い私に驚愕を込めて説いてくれた。

 

二世帯住宅の我が家。

実用品を買うのが若夫婦なら、老夫婦は贅沢品や新製品をいち早く購入した。

カラーテレビ、クーラー、カセットプレイヤー祖父母の所帯には、珍しい電化製品が次々導入された。

 

そしてこれらの製品を運んで来ては設置し、使用法を丁寧に説明してくれたのが、電気屋の「お兄ちゃん」だった。

幼い私から見ると「おっちやん」だったが、そう呼んだのは祖母だった。

「お兄ちゃん」は、ガタイがデカくて優しい目をしていた。いつもニコニコ優しくて、祖母の要求にすぐ応じてくれた(まあ、大得意様だしね😜)。

 

あの頃の家電は今のものよりずっと単純で「初期設定」のような操作も不要。電源に繋げばよかっただけなのに、見たこともなかった機械を自在に繰る「お兄ちゃん」は我が家から見ると魔法使いのようでもあった。

 

修理は勿論、電球の交換なんかも、すぐにやってくれた。

なので、やがて家電量販店が登場して、私がそのような店で買いたがると、母は猛反対した。

長年お世話になっているからと。

 

そうやって祖母の亡き後もなるべくお兄ちゃんの店で買っていた我が家。

母が具合が悪くなったときにエアコンの買い替えとファックスの導入をお兄ちゃんの店に頼んだ📠

たった2台の作業だったのに、ファックスの初期設定に手間取って、私と一緒にマニュアルと睨めっこして、挙げ句の果て、「お嬢さんがいなければ設定できませんでした」と汗を拭いながら帰って行った。たった2台の設置だったのに日が暮れていた。

「お兄ちゃん」の背中はすっかり「おじいちゃん」になっていた。

 

最後に挨拶を交わしたのは、蛍光灯を持って我が家の前を歩いていたときだった。

近所の家でも、「お兄ちゃん」にちょっとした仕事を頼んでいたらしかった。まさに「街の電気屋さん」だった。

 

まもなく「お兄ちゃん」は天国に旅立って行った。

あの世からお呼びがかかったのだろう。「電気直して」と。

 

ここのところ家電の不調が相次いだ。洗濯機、エアコン、ドアホンも買い替えた。

タブレットパソコンからメーカーのサイトをあけて、画面をポチポチして修理依頼した。

 

あるときはメーカーから、あるときはどこかの電気屋さんから派遣されてきた「お兄ちゃん」たちは皆いい人たちで、タレント修行中かと思うほどのイケメンもいて、決して不快感はなかった。

が、いちいち別の人を呼ばねばならず、朝から待機していなければならず、不自由だった。

「こんな時お兄ちゃんがいたら、ちょっと来てもらえたのに」と思った。

 

昭和時代には、商店街に必ずあった「街の電気屋さん」

絶滅危惧種に追いやってしまったのは、進化し多様化した家電のせいであり、家電量販店ばかり利用するようになった私たちのせいでもある。

 

家電だけではない。

八百屋、魚屋、パン屋、多様化した商品を一箇所で買おうとする消費者のワガママが、日本中の商店街をシャッター街へと追いやってしまったのだ。